2009/07/08

昨日の「七夕」

ものすご~く久しぶりに、7月7日の夜に星を見た気がする。

新宿で飯食って最寄りの駅に降りると、
明るい月と雲に邪魔されつつも、幾つか星が見えていた。
これは珍しい。雲がへれば月は煌々と照り、
やがて風がだんだんと強くなり雨戸がばたばた。
しまいには嵐となりました。

そういえば私的に「七夕」はあまり句材にしたことがない。
今ためしに2、3つくってみたものの、
とても人様にお見せできるものができない。
そもそも実家では旧暦でやっていたし、歳時記通り
この時期はどうにもピンとこないってのもある。

七夕の佳句もすぐに浮かばない。
現代俳句データベース」で恣意に
ひかれたものをひろってみた。

  七夕や遺髪といへるかろきもの     角川照子
  七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ      橋本多佳子
  七夕や別れに永久とかりそめと     鷹羽狩行
  七夕や輪ゴムが一つ落ちてゐる     阿部青鞋
  草負うて男もどりぬ星祭           石田波郷
  泥舟でいいではないか星祭       大木孝子
  天ざかる鄙に住みけり星祭        相馬遷子
  夕ごころはなやぎ迎ふ二星かな     西島麦南


多佳子の句が浮かばなかったのは不覚。
遷子句の「天ざかる」は「鄙(夷)」にかかる枕詞だとか。
それだけで一句形象した潔さが良い。

それにしても、「七夕」で検索したら、
この青鞋句と狩行句がならんで出た。けっこう笑える。

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2009/06/26

「俳句」7月号

で、ドゥーグル・リンズィー氏の句集『出航』評を書いてます。良かったら御覧下さい。

櫂未知子さんがどこかに書いておられたけど、句集評というのは総合誌などでは毒にも薬にもならないものが多いらしい。私のが毒入りかどうかはたぶんコンテクスト次第だけど、この句集の特徴を紹介するのにあたって自分の問題意識の俎上で書いてはいます。しかし、記事読んだ人がこの句集にもっと興味持ってくれるように書けたはず、と反省。


そこで、というわけではないけれど、以下、句集読んでいてやってみようとおもった画像コラボ企画をゲリラ的に。


ドゥーグル・J・リンズィー『出航』+YouTube


      有人潜水船「しんかい6500」で初めて深度六五〇〇m未満に潜る
 
   「しんかい」や涅槃の浪に呑まれけり

しんかい6500

   
   身を開き閉ぢミズクラゲ梅雨に入る


   秋彼岸マンボウ二つすれ違ふ


   時雨るるややどかり殻を替へてゐる

   ヤドカリが貝測りゐる大旦

   鮟鱇の吊されて影持ちにけり

  


   日脚伸ぶ直立不動のチンアナゴ


   チャンスあれば飛びつく主義や潮まねき


   数へ日の海蛇波へ伸び上がる


   オウムガイの槽へ指先百本伸ぶ   


   彼方より誰か待ちゐる髪水母
 


   怒濤退く甲板一面銀河かな

   
※ほかにも「朧夜の橋に悩めば鯔鯔鯔」「鯔飛んで一人また一人帰国せり」は、私も昔から鯔をよく見ていたし好きな句なのですが、いい画像がなく断念。


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2009/06/03

テクスト論やらポストモダンやら

取り急ぎなので引用しないけど、ここんところどうもネット上各所で話題になっているようで。

ちょうど院生時代に作品論の大御所三好行雄氏(先生の先生)が亡くなり、テクスト論へパラダイムシフトしたのは良いが、付随する諸理論(ジュネットとかデリダとかクリステヴァとか)周りに教えてくれる人がいないために世織書房『読むための理論』がバイブル状態で理解にさんざん苦労したのでなつかしい。

ちなみに研究領域ではその後、コンテクストを重視する流れからカルチュラルスタディーズの流行へとシフト(その成果が秋尾敏氏の『子規の近代』。これは良い仕事である)し、今は学会誌の論文を見ても狭義の文学の研究なんやら文化の研究なんやらようわからんようになってきて、そこの批判者との混在状態というところ。

実際に俳句にテクスト論を持ち込むのは難しくない。というか、簡単である。俳句は小説や詩、短歌に対して、作品の所収者にして、読みの意図の統括者たる主体が読者に見えにくいからだ(知る限り、この点の最も早い指摘は夏石番矢氏である)。しかし、そんなことが問題の中心なら、テクスト論のお世話になる必要はあんまり無い話である。テクスト論の功績の中心は、小説を中心とした作品の解釈主体を、従来の作者の意図から読者の読みの可能性へシフトさせることにあり、それによってテクストそのものの読みの可能性を従来より開くことにあった(主に石原千秋氏や小森陽一氏の仕事参照)が、その後膨大なテクスト論の論文が生産され、当然粗悪なものもあって、田中実氏らに「読みのアナーキー」とキツイ批判(『小説の力』など参照)をうけた。ざっくりいうなら成功例もあるが、それは膨大な失敗の上にある。で、俳句に今更その歴史をくりかえして何か言う必要あんだろうか?

随分前に考えたことを要約するが、俳句における主体の表現(いわばだせどころ?)は、ほぼそのまま俳句というジャンルの内部での立場の違いを反映してしまうのであり、俳句におけるテクスト論が可能かが問題なのではなく、みんながテクスト論で論じてる俳句ってどれよ?みたいな話になってくるのではないのかと思うのだ。だって、同じ土俵にあがっているようでいて、芭蕉も子規も山頭火も重信も浩司も同じ俳句だ、って言う風にはみんな思ってないじゃん。

俳句におけるテクスト論は、逆説的にそこをつくためのツールになりうると思うんだけど。ついでに言えば、テクスト論は過去の作品の読みの主体も読者側にやってくる。小森陽一は、「桃太郎」が先の大戦中日本男児に、「鬼」が鬼畜米英に喩えられ、読み直されている例をあげていた(『読むための理論』)そこ、深いでしょう。

ポストモダンは時間切れ~。

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2009/05/18

たまには昔の音楽のことなど

REPLICAというマイナーな実力派ロックバンドのボーカル浜崎直子のソロ。
他の曲調とはちょっとちがう感じだが好きな曲である。
しかし、ソロで出したためか、はたまたバンドの方とはラインが違ったせいか、
REPLICAアルバムにはいることはなく、アニメのエンディングテーマになっていたので、
そっちのCDなら中古で手にはいるだろうとたかをくくっていたら、たいして売れた様子もなく、
その後最近までまったく聞くことも見ることもなかった残念な一曲。

Twilight Songs

作詞:濱崎直子/作曲:濱崎直子/編曲:濱崎直子/
歌:濱崎直子

懐かしい夕暮れは
切ない香り
窓越しに揺れている
優しい光

帰っておいで
迷わぬように
独りきりで泣かないで

帰り道さえ忘れかけた
遠いふるさとへ

ポケットに隠してる
小さな夢
石ころに見えるような
そんな日は

思い出してね
瞳を閉じて
雨の日も星のない夜も

あなたのために灯される
愛しいともしびを


ココログでどこまでできるか不明だが、YouTubeやニコ動を貼ってみようと思う。
ニコ動のほうがフルバージョン。


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2009/05/13

告知

勉強会の告知です。私が担当。今回はちょっと狭めの会場で、かつ有料です。良かったらおいで下さい。


 第113回現代俳句協会青年部勉強会行動する子規―革新の力学― 

 野球をやっていたことの他には、日清戦争従軍後の寝たきりの子規しか知らないのなら、あなたは正岡子規のことをちゃんと知らない。ティーンエイジャーにして政治集会の演壇に立つ子規。大学寮の運営に対する不満から食堂でおこった暴動の首謀者の一人でありながら処罰されない子規。あるいは結核で血を吐いて療養する身でありながら、全通してわずか二日後の東海道線に乗って帰省する子規。そして学業に挫折し、精神の病を意識しつつ、旅をする子規。彼は常に行動し、行動することによって次の行動のエネルギーを生み出したように思われる。今回の勉強会では、俳句革新に至るまでの子規の道程を俯瞰し、子規の俳句革新の力学を探究してみたい。

 基調報告   橋本 直
 司  会    田島健一

 日時:平成21年6月13日(土)午後2時より(予定)
 場所:現代俳句協会会議室(右側の入口)
     〒101-0021東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
 参加費: 参加費500円
 定 員: 25名(受付順)
 お申し込み、お問い合わせなど  現代俳句協会青年部
 〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
  TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191
  <E-mail>genhaiseinenbu@yahoo.co.jp

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2009/05/10

戸隠

ゴールデンウィークの戸隠。今年は善光寺と戸隠神社のお祭りが重なり、某有名おそば屋さんに開店前から200人以上ならぶ有様。とはいえ観光客の少ない森の中はいたって閑か。森であそんで原稿を書いて、心身のリセットをして帰還。

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2009/04/08

海図のアポリア

ここのところどうもIEの調子が悪く、時々フリーズしてくれる。
今も記事アップしようとしていたらフリーズして書き足した記事が消えた(泣)。
タブブラウズにかかわる関連づけのどれかが原因だとは思うのだがそれ以上不明で気持ちが悪い。

さて、さる4日土曜日、神奈川近代文学館で催されたシンポジウム「虚子の客観写生」

 講師:稲畑廣太郎、今井肖子、岸本尚毅、筑紫磐井  コーディネーター:稲岡長

に行ってきた。これは、企画展「虚子没後50年記念 子規から虚子へ―近代俳句の夜明け―」にあわせて催される3回シリーズのシンポの2回目である。池田澄子さんなども来ておられた。

会場の「前衛」はホトトギスの関係とおぼしきおばさまおじさまで埋まっている。私は「後衛」に陣取って周りを観察。司会の稲岡さんが「みなさんこんにちは~」と口を切ると、前の方で「こんにちは~」とおばさま方が元気よくお返事される。おもわず「いいともかよ」と心の中でツッコミをいれたが、前説なしにこの空気ができているのは驚き。以下部分的に内容を所感を。

はじめに10分ずつ発表ということであったが、稲畑さんは倍くらい話された。語りは関西弁でわかりやすく、昔聞いた落語家さんに似ていたがそれが誰だったかは思い出せない。ともあれ、さすがに話慣れた方である。色々話されたが、例えば子規の「ある僧の月を待たずに帰りけり」の主観性に触れ、客観的な描写とその背景の主観の鑑賞を説いておられた。お話しの内容をざっくり言えば、客観写生にも主観はあるんだということ。わかりやすいが子規と虚子の全集を読んでいる人には既知のレベル。ただ、虚子のことは正確だったが、子規のことは虚子の言った子規のことであって、その「写生」認識はちょっと違うなあ、と思うことも。

今井さんはまず、虚子の写生を「スケッチというよりデッサンに近い」と述べられた。他にも坂本繁二郎の絵のことと彼の「物感」の話や、鈴木花蓑「大いなる春日の翼垂れてあり」について触れられた。それより、話のツマくらいだったが、同じものを食べても同じ味覚なのか???とか思うと仰っておられたのが、面白かった。虚子の「客観写生」「花鳥諷詠」は、要は創造共同体を想像するための「共通言語」としての網掛けであって中身を云々することよりスローガンとしての永続性をもつ働きの方がよほど重要だとみている私には、そこを敷衍してお話しいただきたいところだった。

岸本さんはそれまでの論点と自分の論点をすぱっと整理され、例句をあげてぱぱっとお話しされた(さすが頭いい~)。

・絵画との関係 →ここまで例に出た句をみると絵にはなりにくい。
・主観と客観の関係 →程度問題だろう
・写生か写生でないか (略)
・虚子について →「進むべき俳句の道」の時代の作家(石鼎や普羅ら)の写生がドラマのように面白かったのか時代があって、なぜそれが面白かったのか考えてみたい。
・「存問」について → 自己完結ではない、あとは人に任せる、という点で根っこの方で「写生」に通じる
・花鳥諷詠と客観写生について →爽波「箒木のつぶさに枝の岐れをり」と「箒木の箒木をおし傾けて?」前者は季題としての説明ができている花鳥諷詠句の例で、後者は「客観写生」の例としてあげられる。

ってなところ。

磐井さんは、ここで場違いの自分がいる理由の一つとして、虚子と自分の共通の敵として「悪しき近代主義」をあげていた。そこにいない某氏への論難含めもろもろあげていたがここでは省略する。他に歌の「写生」との史的状況の違いも述べていた。

次に司会の稲岡さん(この方「ホトトギス」の重鎮っぽいのだが)が、「客観写生」はあるのか、ないのか。という問いかけをされる。これはつまり、なんだかんだ言うても、つねに主観はあるものやんか、って見地からの質問かと思う。みなさんそれぞれにお答えになったが、発言順に

今井さんは、写生句というのはよくわからないが、客観性を意識することはあると仰った。

岸本さんは 虚子、素十、素逝らの例句をいろいろあげて客観写生表現を説明し、100%は無理だがまだまだ行けるという風なことを仰った。主観は消せないが読む人によってぶれないことばを使う、とも。思うに、この「ぶれない」ということへの信頼と態度の問題が個々の差異のモトになるのだろう。これは信じる/信じないとやる/やらないのマトリックスで四つの態度があり得る。

稲畑さんは虚子は料理人と同じに塩加減がよくわかっていた云々、と仰った。これに限って言えばコントロールする側の人間は勘所おさえていたというだけの話で、その他は関係ないような気も。この料理の話で思い出したのは、たしか山本益弘氏が何かで書いていたのだが、同じフレンチの一流店で修行していても、フランス人のシェフには料理にエスプリがあるが、腕が良くても日本人シェフにはそのエスプリを出せる人が少ないのだとか。ポイントはむしろそういうところなんじゃないだろうか、とか思ったのだが。

磐井さんは、それを題詠の一環と見て、万葉以来の題詠詩を軸に理解すべきでは、というようなことを仰った。


再び司会の稲岡さんが、虚子は主観写生という言葉を使ったことがあるのか、とか言い出したり、「ホトトギス以外の人いますか~」と質問会場にふったり、司会者がやや走りすぎ?で、なんだかだんだんぐだぐだな感じに。結局問の立て方からして、「ホトトギス」の人たちも、決して虚子を妄信しているわけではないことがよくわかった。これはきてみて確認できて良かったと思う。しかし、では今の「ホトトギス」のもつエスプリって何なんだろう?

「豈」仲間の大井恒行さんや中山美樹さん達が磐井さん待ってお茶でも、と仰るので待っていると、結果的にパネリストの方々ともご挨拶したり少しお話ししたりすることができた。これは僥倖。


さて、再び話しはかわるが、週刊俳句に「前衛俳句は死んだのか」についての記事がのっていた。ありがたいことである。以下ざっと感想をメモ。

田島の言っていることは大事なことだが、話の土台部分も論じようとしている核も言葉が足りないから、読み手と立ち位置が違いすぎて誤解を招くんじゃなかろうか。

神野紗希さんの整理は、納得できるところもあるが、やや机上論の感なきにしもあらず。

「前衛俳句」を歴史的用語として整備すること
は一学究としてはそれを支持参加することにまったくやぶさかではないのだけれど、既にある各種の辞典を包括しつつ、改めてこれを実行するのはなかなか至難である。至難というのは文字通りこのカッコ付けという網掛けの実践から既にはじまる。客観妥当性のあることを追究し、調査研究で得た範囲での事実のみを論じ、恣意的見解を交えない、という態度がどこまで確保しうるのか???なのである。かつ、ある時ゾンビのように、言葉としての「前衛」が世間に復活すれば、いずれ俳句もその流れにのっかるわけで、前提は古ぼけたものになる。あんまりなさそうだけど理論的にはそんなこと決してない、といえない。ま、なにはともあれ用語の整備が不充分なのは前にも書いたことがあって、たしかに問題なのだ。

私も実作と研究を並行して行っている一人であるが、研究者の良心として、客観妥当性のあることを追究し、調査研究で得た範囲での事実のみを論じ、なるべく主観的見解を交えない(ま、「子不語怪力乱神」みたいな)というレベルと、今ある認識、常識やら、自分が信ずる文学のありように対して、思うことを自由に語るということはいつも都合良く両立してくれるとはかぎらない(これは言うまでもないことか)。やや話の筋は違うが、大学の師匠の師匠である三好行雄もたしか石田波郷の句を引いて作品論としての俳句論の成立の困難さを語っていたはず。

更に言うなら、仮にいま/ここにおいて普遍妥当性をもってそのように整備することは可能として、その知の構図の合理主義性そのものがどのような知的要請に基づいて出てきているものなのかということを議論の射程に収めてあることは何かしら言葉にしておくべきだろう(たとえば、「メリット」は誰のためにあるのかの妥当性についてとか)。田島はそこを自分だけわかってる書き方っぽいから、いまいち伝わってこないのかも・・・。

牽強付会に過ぎないかも知れないが、俳人における「前衛俳句」を、儒家における「鬼神論」におきかえると、事態は似てくる気がする(あるいは先のシンポジウムの「客観写生」の有無にしても同じことだろう)。それはすでにあることになっているがあるんだかないんだかわからない「鬼神」をどのように自分たちの理論体系の中に位置づけていくのか

先行する言説の再解釈の言説のあり方、すなわち先行する言説に自己の正当化の答えを求めるようにしてかかわる後継の言説というあり方(子安宣邦『鬼神論』)
における和漢の儒家の「鬼神論」の解釈論的な知の構図のありよう、例えば諺では「鬼神」やら「怪力乱神」を語らないはずの儒家達の、有鬼・無鬼(有季・無季みたいでしょ)についてとってもべらべら論じているその態度のラディカルさ加減といったらこれぞ風狂って感じでたまらないのである。

ちょっと飛ぶけど、実は俳句のもろもろ内容の宙に浮いた専門用語が飛び交う世界の、合理的世界観の網には単純明快に解釈裁断され得ないということにしておくことの知的重要さは如何ほどわかられているだろうか。己の欲求に従っていうなら、今回のシンポを含めて、カッコ付きの「前衛俳句」について、それが何であったのかを定義していくことの困難よりも、そのような「前衛俳句」(あるいは「客観写生」)をめぐる言説の構造について論じる方がよほど面白いだろうとは思う。先行する言説にいかに「自己の正当化の答え」を折り込むかには、儒家ではない我々にはさらに幾つかの態度があり得るのであり、この態度の選択の問題が重くみえにくい。

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2009/04/03

鈴木六林男文献目録

以前に現俳青年部で基調報告したときにおまけで付けた
「鈴木六林男文献目録」を改訂して「神奈川大学経営論集」で活字化し、久しぶりに更新したホームページの方にあげてあります。
鈴木六林男研究の一助になれば幸いです。

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2009/04/01

去る28日に

上野の東天紅でゲンハイの理事会と総会がありました。

で、総会での承認を経て、
私ゲンハイの青年部部長を仰せつかりました。
関係者の皆様、今後ともよろしくお願いします。

なにより面白い仲間がいるし、俳句についていろいろやれるでしょう。
うちら、これから面白くしますよ。

さて、当たり前だが今回理事会にはじめて出席した。
理事会がどういうものなのか知っている会員って
ほとんどいないのではないだろうか。

どんなもんなんだろうと思いつつ会場へいってみると、
変則の三重の長方形で席が設けてあり、
一番下手の新役員候補の席(名前付き)でお弁当をいただいた。
鳴戸奈菜さんがちょうど席がお隣で、先日のシンポのことなどしばし話した。
復本先生と同い年と仰るのでちょっと吃驚する。
ほぼ正面には池田澄子さんがいらっしゃる。

見渡すと、たくさんいらっしゃる役員さん達の中、
どう見ても私と同世代(40前半)以下はいない。
それは予想していたけれども、どうやら一回り上の世代すら、いないっぽい。
そういう方々がずらっとならんでおられる。
みなさま結社の主宰かなにかでいらっしゃるのでしょう。

なるほど、7千人規模の俳句組織の理事会ってのは、そういうことなんや。
前年度決算やら新年度予算やら、企画やら行事日程やら、一通り説明と承認が繰り返される。
その後、理事会と総会は基本同じ話を2度聞くことになることを知った。
真面目な方は、どうやら軽口まで同じ内容の原稿を読み上げておられるらしい。
2時間×2。中身は大事な話だってのはわかるんだけど、眠いぞ。

基本的に、組織じゃなきゃできない(俳句のために)ことをやらないことには
これだけ集まっている意味はないと思うのだが、細かいところをチェックしだすと、
わからんことが多い組織だ。

表彰では金子老師が、故阿部完市さんに代わって表彰を受け、
阿部さんについて、ここではちょっと書けないことを、いつもの調子でさらっと言ってのけ、
場の空気を自分のものにしていた。

懇親会ではゆっくり飲み食いする間もなく?即席青年部員会議やったり、
出版社の方々やら諸先輩方やらにいろいろお話しを伺ったりしているうちにお開き。

私は翌日早かったので少しお茶して撤収。

そして、翌日から昨日まで戸隠にて魂のお洗濯。

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2009/03/17

神奈川大学高校生俳句大賞のシンポジウムなど

下記告知にも書いたけれど、おととい日曜日、神奈川大学高校生俳句大賞の表彰式でシンポジウム「俳句にとって自然とは何か」が行われました。残念ながら金子老師は事情でご欠席。

話としては、自然詩と言われる俳句も人事の入ってこないものは少なく、俳句の自然はネイチャーではない、と至極当然の話。高校生向けということもあり、そこから先の難しい部分には踏み込まなかった。(でも、今時の高校生って、二項対立はわかりやすいが古いってこと授業で習ってるんですよね。)

久しぶりに越智君にあった。他にも俳句に対してとても意欲的な高校生がたくさんいて、みんなキラキラしている。この空間にいると、あれま~、世の中すっかり変わったのね~ってちょっと勘違いしそうになる。

そのキラキラの中身に関して、もろもろの行事の後で、楽屋内で宇多さんがおっしゃったことがとても気になったのだが、とりあえずここでは書けない。


&下記青年部シンポ関連記事の追加

・「鯨と海星」
http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/360
・「wwwqpwww」
http://ameblo.jp/wwwqpwww/entry-10223296465.html

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