2019/03/11

八年前のこと

 あの日は金曜日で、揺れ出したとき、出講先の学年末試験の採点をしていた。ゆれかたですぐ尋常な地震ではないと分かったが、現実ははるか予想の上を行くものだった。その翌日、急に入院中の父親が危篤になったと連絡が来た。危篤とはいえ、とにかく成績処理をしないと帰るに帰れないので、もろもろ帰る算段をして月曜の朝一に出勤して仕事を片付け、その足で羽田に向かった。そういうと簡単だが、都内まで行くにも最寄りの電車はまだ全線止まっており、バスで動いていた東急線の駅まで約一時間移動して都心に向かうこととなった。職場は職場で地震の時に居合わせた教職員は帰宅できなくなり、やむを得ず一晩泊まったと聞いた。おかげで本やら何やらが散らかったであろう自分の机は既にきれいに片付けられていた、そこで急いで仕事を片付けたが、職場から移動する時にも普段ならおそろしく正確に動いている山手線ですら予告なく途中で止まり、地下鉄に乗り換えないと羽田に行けないありさまだった。フライトにどうにか間に合う時間に羽田に着いてみれば、原発の屋根が吹き飛ぶ映像がモニターに繰り返し映し出されていた。同じ飛行機に乗る客は母と子だらけで、一様に不安な様子であり、戦禍を逃れる疎開者そのものだった。自分はそんな状況の中、この子供達の父親は仕事の為にやむをえず残っているのだろう、とか、テレビの向こうの震災の被災地の中に、直接地震とは関係なくいまの自分のように急に親が危篤になっている人もいるだろう、その人達は大丈夫だろうか、などと思っていた。地元に帰って病院に着いてみれば、父親はなんとか持ちなおしていた。すぐになにか、という状況ではない様子であったので数日で戻ったが、羽田から最寄りの駅までの帰りのバスの、高速の高架の上からみえた横浜駅のバスだかタクシーの乗り場には長蛇の列ができていた。バスが一般道に降りてみると道沿いは明かりを失っておそろしく暗く、たまにあるコンビニの明かりだけが異質に救いのような輝きを放っていた。

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句集備忘録 大沼正明句集『異執』より

 夏石番矢「俳句とは、実は、大胆な異体の言語パフォーマンスを試みる短詩であり、一句中のことばの流れや中断が、つねに実験的であるから、短さが生きるジャンルである。この根本的俳句詩学が、句会が氾濫する現在の日本で忘れられているのは、奇妙としか言いようがない。」(大沼正明句集『異執』栞から引用)

 夏石のこの文は、大沼の句業を語る合間に挟まれたフックの部分なんだけど、日本への愚痴の部分のまるくくり具合はともかくも、この詩学に共感するところ少なくない。大沼正明句集『異執』は1989年から2010年までの句を五章に分けてある。章は編年で立ててあるが配列が編年なのかどうかまでは分からない。どうやら大沼は作風の振り幅が大きい作家なのだが、例えば、

  波の水位のアパートに馴れ鮒など飼う     Ⅰ
  しぐれとお金は大人の生き物こりこりす    Ⅱ
  ユッカ蘭なる冬のシニフィエわれもシニフィエ Ⅲ
  黄蝶直下の僕の身サバンナ踊らんか      Ⅳ
  裁判員の守秘切れトンボと棒消ゴム      Ⅴ

というような詠みぶりは、夏石の言う「実験的」に該当するだろう。もうちょっと跳ねれば、田島健一の今の句柄にも近接すると思うが、大沼はダジャレ的な掛詞も多用する(すなわち意味に頼る文脈の構築を多用する)から、そこは決定的に違う。 

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2019/02/16

『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』

『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(現代俳句協会青年部・編 2018年12月25日発行 ふらんす堂)

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 同書にて、新興俳句弾圧事件で犠牲となった俳人の一人である嶋田青峰を担当執筆しています。ご一読くださると幸い。嶋田青峰は、早稲田大学で教鞭を執り、翻訳を手がけるなどしていましたが、国民新聞社に入社し、文芸部長だった高濱虚子の下で働き、俳句に関わり始めました。その後に「国民新聞」俳句欄から誕生した俳誌「土上」を、篠原温亭から引き継いで主宰しますが、どうやら大正自由主義のモダニストであったらしく、進取の気風をもっていた青峰は、やがて「ホトトギス」の影響をはなれて誌面を新興俳句運動の人々に開放してゆくことになります。ゆえに、「土上」は、創刊から終刊までの間に、柴田宵曲や富安風生から、東京三(秋元不死男)や金子兜太らまで、参加した俳人の作風にはかなり振り幅があり、通読すると面白い雑誌でした。今回の本では紙数に限りがあったので書き切れなかったこともあり、嶋田青峰と「土上」については、いずれあらためてまとめてみたいと思っています。

関連リンク
現代俳句協会青年部の注文フォーム
現代俳句協会の新着情報
ふらんす堂の紹介ページ

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2019/01/25

教科書に俳句が載るということ

   教科書に俳句が載るということ (初出:「In Situ」第2号2013年3月)


   はじめに

 俳句が「国語」の教科書に載ったのは、いつのことからであろうか。管見では、最も早い記事が、明治二十七年の中学校(旧制)の教科書に出ている。しかしそれは、和歌関連の歌文の附録として、連歌、謡曲、狂言、狂歌とともに「発句」として載っているに過ぎない。つまり、この教科書の作成者の認識として、日本の従前からの詩歌の代表は和歌であり、現在の俳句にあたるものは、その他大勢の中の一つにすぎなかったということがわかる。


 発句は、もと、連歌の本をノミいひて、その末  をはぶけるものなり。俳句、また、俳諧などいふ  あり。たヾし五七の一調に、次調の五言をくりあ  げて、そを、歌の上句と心得たるは、誤りなり。  こは、ものヽついでにおどろかしおくなり。

     ○              宗鑑。
  傘をきて、雨にもいでよ。夜半の月。
     ○              貞徳。
  これは\/、とばかり、花のよしの山。
     ○              芭蕉。 
  三井寺の、門たゝかばや。今日の月。
     ○
  雲をり\/、人をやすむる、月見かな。
     ○
  いざゝらば、雪見に、ころぶところまで。
     ○              其角。
  夏の夜や、蚊をきずにして、五百兩。
    蘇東坡の詩に、春宵一刻値千金。花有淸香月有陰。
     ○              鬼貫。
  行水の、すて所なし。虫のこゑ。


  (「国文教科書 第参篇中」明治二七年九月二〇日発行 教育学館校定 朝夷六郎・鈴木忠孝纂。記号等原文ママ。斜体部分の原文は漢文の返り点)

 この時期は、「国語」とか「国文学」という言葉が使われ出してそれほどたっておらず、子規が俳句革新をはじめたばかりのころでもあり、お手本として、室町から江戸期の発句しか載ってないことも当然といえば当然であるが、はじめの短いながら要を得た説明文のなかに、既に「俳句」の語はみえている。そして、自然美の代表である雪月花の五句を配した後、やや滑稽な二句を載せてあるあたり、この項の執筆を俳句がある程度分かったものが担当したと推察される。
 また、俳人から見れば違和感があるはずだが、作者名や五七五の各音節に一々句読点があるのが特徴的であろう。句末にはかならず句点を付し、其角句を除いて句中の切れの場所にも句点を付してある。要は現在の文章における句読点を付すときのルールが最初期の教科書の俳句にも適用されているわけで、この俳句の姿は、いまとはちょっと違っている。国定ではない比較的自由に教科書が作られた時期で、この句読点が教育的配慮だったのか詩歌文章全般の書き方のルールの過渡期だったからなのかは未詳である。が、考えようによっては、我々がこれが俳句だと考えたり、俳句の正しい表記方法だと考えているものが絶対的なものではないことを教えてくれている。
 端的にいうと、これら句群は確かに教材だが、いわゆる国語の「古典」とされたものと考えて良いかは怪しい。挙げてある作家は、蕪村や一茶の再発見前ゆえとしても、作品の選択は発句らしさによるものと思われるが、規範としての「古典」にふさわしいかどうか。表記も規範の衣装を纏うためには、むしろ古典らしいたたずまいとして句読点などは削ぎ落とされねばなるまい。これは一例にすぎないけれども、現在古典とか伝統とかにされているものに、近代に再仮構された成分が含まれることは珍しいことではない。
 さて、そもそも、俳句が教科書に載る意義を、どのように考えることができるのであろうか。すくなくとも以下の五つはあげられるだろうと思う。

 一、例えば歴史の教科書に豊臣秀吉と大阪城が載るように、歴史上の文化遺産として。
 一、連歌や落語のように、専門性の高い日本の伝統的な芸能の一つとして 
 一、教育で学ぶべき伝統的日本文学の規範(古典)の一領域として
 一、教育で学ぶべき近現代文学の一領域として 
 一、誰でも参加可能な創作表現として

先の二点は、どちらかと言えば社会的な領域といえるだろう。社会の教科書にも芭蕉は登場するが、歴史上の文化遺産としての学習であって、作品の解釈まではやらない。後の三点が主に国語が担う領域になろうと思う。そこで駆け足ながら考えてみたいと思うのは、まず、日本の伝統文学の規範たる「古典」に、俳句がいつ格上げされたのか、ということと、同時にそのような「古典」の認識はなぜ、どうして立ち上がってくるのか、ということである。

 
   古典規範化の中の俳句

 明治期においては、芭蕉を中心とした近世俳句が「古典」として定着することに国語教科書が直接なにか役割を果たしたとは思われない。調べた限りの範囲ではあるが、全国一律となった国定教科書の時代以後も、副読本などをのぞいて、あまり掲載されていないからである。また、掲載されていても、芭蕉の書簡中の句とか、子規の随筆中の句という風で、国語教育に於いて積極的に俳句を掲載する意志は感じられない。おそらく順番としては逆だろう。
 子規は蕉門の尻尾を糾弾する為に芭蕉を厳しく批判したけれども、透谷や藤村らの詩人や、虚子、井泉水らが芭蕉の境地を理想として受容したことはよく知られている。これは教科書副読本にも反映していて、例えば大正十三年刊の「現代文新選」下(鳥野幸次他編 文学社)には、子規の「芭蕉の俳句を評す」(『獺祭書屋俳話』からの抜粋)が載る一方で、藤村の「芭蕉の『さび』」が載ってもいる。後年世の評価が定まったところで、あらためて「古典」として教科書類に普通に載ることになった、というところだろう。
 その間の諸々の事情は、それら諸作家の思想や俳句側の事情と離れた「国語」の近代がかかえていた諸事情にもかかわるが、そこに深入りすることは紙幅にあまるので、以下ごく大枠だけ述べておく。
 そもそも、教育としての「国語」は、もちろん自然言語としての日本語とまったく同じとはいえないし、初めからナショナリズムを胚胎して明治に始まったものである。「和文」と呼ばれたものを国民国家の統一言語たる「国語」にするべく推し進めた第一人者は帝大教授の上田万年である。彼はハイパーエリートであり、実は子規や漱石と同い年であるにもかかわらず、すでに十代で早々に帝大を出、明治二十三年(子規が大学に進学した年だ)に独仏に留学し、子規が退学し日本新聞に入社した二十七年には、帰国早々に国文科教授となっている。彼が明治国家から期待されていた仕事は、新しい近代国民国家の統一言語としての「国語」を完成することであった。
 当時は、一国民国家には必ず独自の統一言語があり、独自の文化(各国の通貨紙幣のデザイン肖像画の文化人はその象徴)がある。それは文化相対的なものではなく、欧州列強国のそれに比肩される、という意味において世界標準のルールであったと言って良いだろう。従って、日本文化にも、欧州諸国の詩歌文学に比肩されるような独自のものが当然要請された。もちろんそれだけではなく、江戸期まで独立国家連合のようなものだった各地方とその独自の方言や、領土内異民族の言語による差異を、標準語を拵えることで超克する目的もあったろう。そのような背景が俳句に全く無縁であったとはいえまい。先にあげた例の宗鑑らではそのような要請に応えられなかったからほぼ教科書から消えたのだろう。芭蕉や蕪村や一茶は、日本を代表する古典詩人として歴史に浮上する使命を負って官と民の手で近代以後に理想化され再生されたのである。そしてその芭蕉を批判した子規は、逆に「現代作家」であったが故にその死後は後続の中に埋没し、大正後期にアルスから全集が出るまで、世間に忘れかけられることにもなる。
 さて下って昭和七年の「中学文学読本」上(國語漢文研究会 目黒書店)には、俳句の説明の項に、

 俳句は連歌の発句のみが独立して行はるゝに至  りたるもの、故にまた発句とも云ふ。その鼻祖は  松永貞徳といはれ、北村季吟、西山宗因等によつて継承せられ、遂に元禄の頃松尾芭蕉に至りて文学部門に確立さるるに到れり。

と説明があり、芭蕉の三句の他、其角、去来、凡兆、蕪村、一茶ら八人の十一句が掲載されている。この説明文では、簡単な俳句史とともに、芭蕉がその「文学」としての俳句の大成者として説明されている。冒頭の例から数えれば三十年ほどで、俳句は和歌のおまけからだいぶ出世したとでも言えようか。飛躍するようだが、このころ、日本は国際連盟の常任理事国となってもいる。この「文学」は、国文学の背負った戦略にも、例えば大正の白樺派的な文壇の文脈にも適って、欧米列強と肩を並べ世界の一等国になった国の「文学」であることを意味したものだったろう。


   太平洋戦争戦直後の教科書と俳句

 戦後の俳句と俳人については、すでにいろいろなところで言及があるが、教科書についてはほとんどないのではないだろうか。少なくとも、俳人がそこに興味を持って何かを書いたというのは寡聞にして聞かない。戦後、人間教育を誤った結果があのような悲惨な事態を招いたという反省の下、今度は「文学」にその人間教育の部分へ大きな期待が寄せられたという。その尻尾のおかげでか、長いこと授業における小説は道徳的に読まれてきたし、例えば筆者自身も漱石の小説を人生の教科書のようにいう年配者を何人か見たことがある。それも教育の一成果といえるかもしれないが、もとより漱石のテクストは道徳教育の奴隷ではない。
 それはさておき、その人間教育重視の一環から、と言って良いと思うのだが、戦後の昭和二十七年にでた光村図書の中学校国語科教科書「中学新国語」は、「言語編」と「文学編」の二分冊に分けられている。そして、俳句はその「文学編」からは落とされている。再び俳句は、戦後にふさわしい人間を教育する場において「文学」の地位から滑り落ちた、と言って良いのかもしれない。
 「言語編」に入った俳句は「詩の味わい方と作り方」という章に繰り込まれている。編集者の意図は必ずしも俳句が文学ではないと断定するものではないのだろうが、五人の生徒と教師の問答の形式によって進められる俳句の説明はなかなか高度であるものの、「文学」の語は一つも出て来ないし、最後の「先生」の言葉「この境地は、口であゝだこうだと説明しても、よく納得はいかないと思う。」によく現れているように、やさしい説明などはない。俳句はある「境地」を詠むもので、難しくて人間教育には向かないということなのだろうか。しかし、やさしくないわりに、単元末の学習事項「みんなでやってみよう」では、俳句の創作と発表会を勧めてある。つまり、つくるだけなら当時の教員のスキルで簡単に出来るだろうと思っていたか、本気で作るとは思っていなかったかのどちらかだろう。
 しばらく後に分冊はなくなり、作品の異同はあるものの、ほぼ現在の教科書(本誌資料の頁参照)に近い形が落ち着き、かなり長く続いてゆくことになった。


   俳句が教科書に載るということ

 ところで、ほぼ皆同じ言葉を話せるのに、国語の教育はなぜ十二年も必要なのだろう。受験で必要、という要素を抜いて考えれば、一つには、市民生活に必要な読むスキルを備えるため。もう一つ、話し言葉はともかく、漢字の学習を含めて書き言葉の習得は難しく時間がかかるため、というところだろうか。読みには道徳が滑り込むことにもなる。また、国語で話術を磨くことはまだ一般的ではなかろう。それらだけなら俳句は別に国語の教科書になくてもいいのではないか。また、受験のことだけを考えれば、俳句の授業時間はなくてもいいに違いない。ではなぜ今も載っているのか。

 国語は、長い歴史の中で形成されてきた国の文化の基盤を成すものであり、また、文化そのものでもある。国語の中の一つ一つの言葉には、それを用いてきた我々の先人の悲しみ、痛み、喜びなどの情感が集積されている。我々の先人たちが築き上げてきた伝統的な文化を理解・継承し、新しい文化を創造・発展させるためにも国語は欠くことのできないものである。
この文は「これからの時代に求められる国語力について」という、二〇〇四年一月に文化審議会国語分科会がだした答申の一節で、文科省のホームページで簡単に入手できるものである。  いじわるな言い方をすれば、「国語」は元々、国民国家という世界標準ルールの一環として近代に日本語の中にある方言や国内の異民族の言語を排除して作られた統一言語であったはずだが、いつのまにやら反転して「長い歴史の中で形成されてきた国の文化の基盤を成すもの」にすり替えられている。続く「国語の中の一つ一つの言葉には、それを用いてきた我々の先人の悲しみ、痛み、喜びなどの情感が集積されている。」というくだり、この文に想定された「我々の祖先」から排除された「国語」話者の「悲しみ、痛み、喜び」はどうなっちゃうのだろう、と思わないではいられないのだが、ひとまずそれらと「伝統的な文化を理解・継承し、新しい文化を創造・発展させるため」という表現の中に、俳句を「国語」の教科書に載せる根拠を読み取ることはできるだろう。  そして俳句が「伝統的な文化」の一員で、かつ「新しい文化を創造・発展させる」ものである限りにおいて、近世の発句も近代以降の俳句も有用、と認められるからか、新しい指導要領では創作要素が導入され、小中の義務教育では俳句の学習に加えて創作の授業が行われることとなっている。


   おわりに

 社会には時代時代でルール変更をされる部分と、変更されないまま意識から後景化し見えにくい部分がある。教育はそれらへの醇化や修正を担う分野の一つだろう。ゆえに逆説的に過去の教科書と現在を見くらべれば、変更された部分を確認することは可能である。ここで書いたことと俳句の本質とは本来何の関係もないように見えるかもしれないけれども、これから世の中に学生の手になる「国語」に適う俳句が大量に生まれてくる。俳句甲子園のようにそれをディベートで批評することもなされるだろう。それは青い柔道着のようなもので、俳句への欧米型のルールの導入でもあり、PISAが要求する言葉に関する能力の涵養にも貢献しうるだろう。これまでもそうだったように、時代がそれを求めているから、ということなのかどうか。


〈主要参考文献〉
菅野覚明「詩と国家」勁草書房 二〇〇五年
佐藤泉「国語教科書の戦後史」勁草書房 二〇〇六年
安田敏朗「『国語』の近代史」中公新書 二〇〇六年
石原千秋「国語教科書の中の『日本』」 筑摩新書二〇〇九年
中野敏男「詩歌と戦争」NHKブックス 二〇一二年
※引用の教科書類は、筆者が国立教育政策研究所教育情報研究センター教育図書館及び、公益財団法人教科書研究センター附属教科書図書館所蔵の資料を調査したものに基づく。
  

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2018/12/22

三宅やよい著『鷹女への旅』(創風社出版)書評

「三宅やよい著『鷹女への旅』(創風社出版)書評」 (「船団」第115号 2017年12月1日発行)

  
   天才のトレース

 不勉強で知らなかったのであるが、三橋鷹女はその高名に比し評伝や研究資料が少ないように思われる。『三橋鷹女全集』(立風書房、一九八九年、全二巻)の第二巻は鷹女論集で、巻頭の中村苑子を除き既発表の諸家の評論二十五本を集めて有益だが、いまこの本の入手はかなり難しいだろう。また、朝日文庫『現代俳句の世界11 橋本多佳子 三橋鷹女』(一九八四年)の巻末には、齋藤愼爾による略年譜と三橋敏雄による解説があり評伝としても要を得たものではあるが細かい部分の情報不足は否めないし、今やこの文庫もなかなか入手は難しくなった。そして、本書が出るまで単行本としては評伝らしい評伝は一冊もなかったようである。その意味では現在もっとも入手しやすく、かつ丁寧に鷹女の生涯の足跡をたどっている本書は、画期の仕事であるといえるだろう。鷹女の出生地である成田の時代から筆が起こされ句集を軸に章立てされており、各章でその時々の鷹女の生活の様子と俳業が丹念にトレースされてゆく。

 私が鷹女句でまず浮かぶのは「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」や「この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」であり、これらの句の主体には烈女のイメージを持つ。作品と作者を単純に結びつける気はないけれども、そのような造形をする鷹女はいったいどんな人物なのかと読み進めながら印象に残ったのは、家庭においては夫を立てて家庭を守る、いわゆる良妻賢母の典型といってもよいような人であったこと(第一章参照)。また俳句の指導者としても「温和で優しい先生」(一〇九頁)だったことだ。その一方で、表現者としての鷹女は初期から既に師に従うというよりも己に従う人であった。例えば、父の新盆の句、

  流れゆく瓜のお馬よ水に月

 初期の師である原石鼎が賛辞を尽くした呼びかけの「よ」を、鷹女は第一句集『向日葵』に収める時にはあっさり「や」に変えている。三宅氏は「師や同人の評価よりも鷹女にとっては自分の感情をより直截に俳句に反映させて表現することが大事であったのだろう」(四七頁)と指摘するが、大事だから師より自分の判断を優先するというのは、結社の世界では異端と言ってよい。以後も永田耕衣や富澤赤黄男らと影響関係を持ちつつ反発もし、激動と言ってよい時代の中で独自の表現を模索する鷹女の姿が描かれてゆく。
 しかし、独自の表現をするということは他者に通じにくいということでもあるだろう。『向日葵』に対する永田耕衣の、「何を他にプラスしてゐるかがわからない」「思ひ切つてズバリズバリと吐き散らして行つたに過ぎないといふ気がする」という評(七七頁)を受け、三宅氏は「俳壇での『向日葵』の評価はこの耕衣と似たり寄ったりではなかったか。鷹女の個性の強い句は歓迎されなかったのかもしれない」と述べている。「四T」というレッテル貼りをして鷹女句を称揚した山本健吉ですら、『現代俳句』(角川)では鷹女を立項していないのである。結局山本は鷹女句の価値を本当にわかってはいなかったのかもしれない。

 鷹女の俳句の仕事を一言で言うなら、生涯をかけて天才の仕事を試みた、というのがふさわしいように思われる。この天才というのは、結社の中で主宰や仲間に名人と認められて云々というようなものではなく、文字通り俳句の神に愛された一個人による、芸術のための芸術として俳句作品を生み出してゆくような質のものだ。座の文芸とも言われる俳句の世界においては、そのような仕事を試みる俳人は特異で少数の存在であり、まして明治生まれの女性でというのは、希有のことと言っていいように思う。いまだに男性芸術家であれば家(家庭)を顧みないような所業をしても往々にして社会から甘やかされるところがあるように思うが、女性の場合そのようなことは許されない社会の強い抑圧が働いているからだ。

 本書を繙くことで見えてきた鷹女の仕事の面白さ、大変さは、そのようなことを百も承知ですべてを引き受けながら老境に至り己の限界を見定めるところまで一個として独自の表現を確立しようとしつづけたところにあるかもしれない。それは凄絶な日々だったに違いない。「エピローグ」で晩年の鷹女と生活を共にした三橋絢子氏のインタビューの以下のくだり、

  三宅 お孫さんへのしつけっていうのは厳しかったですか。
  三橋 そうね、いつでも緊張されている方だから、子供のほうも緊張してしまうっていうのはありましたね。

 この「いつでも緊張されている方」というのが、非常に印象に残った。鷹女の生きる姿勢、そのたたずまいが端的に現れているように感じたからだ。

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「冬海」(角川「俳句」2017年12月号)

  冬海      

狐火を匿むガラスよ吹き手たち
食べるだけ食べ寒鯉になつてゐる
猪の身籠もり廃船は陸に
郷土史に獺滅ぶ冬の波
凍星の端を大魚の跳ね上がる
黒髪に霜結ぶまで海に向く
寒暁の市場の猫の面構へ
糶果ててゆくところなき撞木鮫
鮫の歯を目を背を腹を見て触れる
冬の鳶なにをみてゐる塔の先
捨てられて漂ふ河豚の膨れ腹
冬海を放つ海月は溶けながら

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 『俳句年鑑2018』「合評鼎談 総集編」

 『俳句年鑑2018』「合評鼎談 総集編」より。2017年の角川「俳句」9~12月号を担当した鼎談を受けて
書いた記事。

担当号ベスト13


7月号 
沖の帆に香りとどけよ花みかん    鷹羽狩行
桐咲ける朝しづかに洗面す      山下知津子
潜水に浮力ふりきり河烏        正木ゆう子
墨の香の大間ありけり夏燕      生駒大祐
8月号
転舵して茅花流しに並走す      大石悦子
椰子遥か母国とは蝶の言葉とは   対馬康子
書きしもの古りゆく早さ遠卯浪    藺草慶子
9月号
老女の夢にいくたびも蟻地獄     黒田杏子 
ヒッチコックの横顔涼しいと思ふ   大牧広
吾亦紅少年は野に来て唄ふ     林桂
夏果の真水のやうに由紀さおり   成田一子
10月号
月孤独地球孤独や相照らす     長谷川櫂
龍淵に潜むころなる雨の紋      石田郷子

 〈総評〉 新興俳句的なもの

 俳句の研究をやっている関係で、春から夏にかけ、虚子門より出て『土上』を主宰し、後に新興俳句運動の一翼を担った嶋田青峰の仕事をまとめて読む機会があった。青峰はいわゆる新興俳句の弾圧事件で逮捕され、病身のまま劣悪な環境に留置されたことによって重篤となり命を縮めた。インテリ俳人である青峰は、時の流行に真摯に取り組んではいるものの、句文ともに反社会的な過激さはどこにもない。むしろ時代なりに充分忠君愛国的である。それでもそのようなことになるのは、恣意にそうしたかった者達がいたからだろう。俳句をやっていただけで死なねばならないなどナンセンスもいいところだが、昨今の緊迫する社会情勢にあっては、過去のひどい時代の話では片付けられないように思う。二度と青峰のような犠牲者は出てほしくないが、俳句がこれから先にそのような恣意の者らを寄せつけないでいられるだろうか、などと考えていた矢先、今回の鼎談の依頼をいただいた。かような問題意識でいたせいか、ひとまず後に残る可能性を感じた十三句を選んだが、花鳥の天地に遊ぶ句を面白くよみつつ、新興俳句の遺産でもある社会詠や連作に注目することが多くなったように思う。
 東日本大震災とそれに伴う原発のメルトダウンは、この国のかたちと言葉にさまざまな変化をもたらしたし、あれから六年以上を経てもいまだ先が見えないものがある状況ゆえに生まれてくる句がある。「幾たびもいくたびも消え夏渚」「遠蛙待ちも待たせもしない人」(照井翠「青き血」。八月号)。震災詠で知られる『竜宮』の作家は、一見ただの日常を詠んでいるようでありながら、常に身にまとわりつく霊性としての「人」を描くところに行き着いているようにみえる。「孑孒が制す原発再稼働」(山﨑十生「孑孒考」。八月号)。山崎の句の特徴の一つに擬人的な万物の表現があるが、一見非論理的なこの句は、孑孒を象徴とするいきものの意志を詠んだように読める。それは、「原子炉を抱え死すとも蟾蜍」(渡辺誠一郎「水中花」。八月号)の「蟾蜍」のより切実な自然に通じるものでもあろう。やや傾向はことなるが、「向日葵のいつまでつづく連鎖かな」(曽根毅「連鎖」。九月号)は、明るさのシンボルのような向日葵の群れを「連鎖」と描写することで、我々の背負っているさまざまな「負」の影をまとわせているようである。また、直接社会性をあらわした訳ではないが「椰子遥か母国とは蝶の言葉とは」(対馬康子「草いきれ」。八月号)は、異邦あるいは境界から中心の「言葉」へ問を投げかける視点の大きい句。「湘子忌の蝌蚪おどろかす棒つ切れ」(大石悦子「金魚玉」。八月号)は、湘子の蝌蚪の句をキーにすると社会詠とも読めてくる(一〇月号鼎談参照)。
 かつて、新興俳句の「連作俳句」は賛否とも議論をよんだし、その用語を嫌うむきもあるかもしれないが、ここでは一つのテーマで掲載され、明瞭に内容の連関のある句群を「連作」とよぶ。句数のある連作では父母をテーマとした「父母の代はセル匂ふなり古疊紙」などの高橋睦郎「父母心経」(七月号)が際立っていただろう。他に印象深かったのは「死者の目のみるみる乾く青時雨」などの白濱一羊「父身罷る」(8月号)と、「患者IDタグも遺品や青葉寒」などの池田瑠那「君」(一〇月号)で、いずれもごく身近な人との死別を描く。妙な言い方になるが、連作の題材として相性が良いのだろう。「胡弓の音風に揺るがず風の盆」などの和田花凜「風の盆」(九月号)は今やメジャーとなり格好の句材となった風の盆をそのイメージ通り描いてみせた連作として完成度が高い。また長谷川櫂「月」(一〇月号)の「鶴の間に鶴の遊べる月夜かな」をはじめとする鶴の句群は明瞭に連作的であるが、これは連句の手練れでもある作者ならではの案配かもしれない。今後明確なテーマによる表現意図をもつ連作が増えるのかどうか。またそのなかで社会詠はどのように展開するのか注目しておきたい。


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2018/07/22

解釈をとりまくものについて(初出『俳句界』2017年10月号掲載「俳句における「解釈」と「構造」」。一部内容の改変がある。)

   「解釈をとりまくものについて」      

  南風吹くカレーライスに海と陸      櫂未知子(「カムイ」)

 以下、この句を起点にして考察を進めたい。カレーライスのビジュアルを「海と陸」とみなす見立てと季語(季題)の斡旋の妙が高く評価されているようだ。例えば、坪内稔典氏は「カレーがとてもうまそうだ。たらたら流れる汗を南風が快く吹いている感じ。(中略)櫂さんらしい大胆で機知に富んだ見方だ。カレーライスがまるで南風の吹く島みたい。」(船団の会のホームページ「e船団」より引用)と、作家の個性と結びつく技術面として機知の働きを褒めているとともに、カレーを食べることでかく「汗」を連想し、季語「南風」とひきつけて島のイメージを引き出す〈解釈〉をしている。また、林誠司氏は「カレーライスの中に海と陸を見出す眼力は鋭い。(中略)『南風吹く』という季語が一句に大きな息吹を与えている。眼前のカレーライスが、日本の岬や南洋の島々へとみるみる変化してゆき、壮大な地球の力をも読み手に感じさせてくれる。素晴らしいのは、壮大な風景から壮大な一句を詠むのではなく、眼前のたわいないものから壮大な風景を思わせる、その手法である。」(ブログ「俳句のオデッセイ」より引用)と述べる。林氏も、見立てと季語の斡旋を高く評価し、季語の働きで視点が大きく俯瞰的になる〈解釈〉をしている。この二つの解釈の差はその視点の位置である。坪内氏の眼は水平に近くあり、林氏の眼は衛星画像のように高い。同じ高い評価の句の解釈でも、このようにその内容は微妙なポイントでずれてつくられてゆくものだ。


 ところで、主に観光地の料理屋で、カレーのライスを富士山など土地の風景に見立てて盛る例はすくなくないと思う。その発想を見立ての句にするのは、通俗を詩に昇華する俳諧の技の妙というものだろう。例示した二氏の解釈を理解し、かつ、この句のかような巧みさを理解しながら、率直に言って私はこの句をあまり面白く感じられない。面白さも「解釈」の一部であるならば、この「好み」の差は果たしてどこからくるのだろう。また、俳句に無縁の人にとっては俳句の解釈そのものに困惑することがあるというのはしばしば聞くところである。つまり俳句には、日常言語の運用にはない特殊な解釈の型がある。俳人の多くはそれを内面化しているが、俳句を嗜まない者の言語運用の生理に対し、俳句が言語環境的に抑圧(批判的意味ではない。「抑圧」の結果は良悪様々に現れる。)するものの代表は、季語の使用義務と五七五定型の墨守であろう。そして、俳人は案外それに鈍感なような気がするが、本稿所与のテーマ「なぜ俳句には複数の解釈が存在するのか」に根本的に関わる抑圧ポイントは、「選」ではないだろうか。例えば、俳人は俳誌の投句欄や句会を修行研鑽の場とするが、そこでは他者(主に主宰)の「選」によって己の句を磨くことに意味があるだろう。その時「選」は「解釈」を前提になされるはずであり、句の「選」は「解釈」を内包する。そこでは常に類想がないかなど他の句を比較して読みがち(そこでは解釈にも型があるはずだ)であることや、なるべく句の面白さを引き出し好意的に解釈するという俳人独特の「読みの生理」が生まれてくるだろう。同時に、ほとんどの読者が作者でもある俳句にあっては、つくることに対する態度の問題が「選」を抑圧することがありうるし、「選」の数の力が「解釈」を抑圧する状況も存在することになる。例示した句を離れて言えば、無季句かどうかで読みの対象となるかどうかの線が引かれるようなことは句会や賞の審査の場でまるであたりまえのように行われている。

 ここで先の句を他と比較してみよう。例えば、同じく大衆的な食に関する風景を、言われてみればその通り、という鮮やかな手際で拾い上げた類の機知の働きなら、

  蠟製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ  関悦史(『六十億本の回転する曲がつた棒』)

の面白さに惹かれてしまう。この句は見立てではなく空間の広がりもないが、食堂の外のガラスケースに並んだ食品サンプルによくある小さい風景の「写生」といってもいい描写でありながら、描写の対象と用い方が空前であるために初読では超現実性を帯び、最後まで読めば季語「凍つ」の寒々しさによって昭和の場末の哀感すら招かれ、諧謔味が冴える。あるいは、

  ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ      田島健一(『ただならぬぽ』)

この句の「ぽ」は、単体で意味を読むことは困難であり、日常の言語の運用を越えたところ(あるいは言語の原初)から読者(とその言語世界)を巻き込んで、一句として詩的言語の共同創造をする(意味を生み出す)必要を目に見える記号にして内包させた面白さをもつ。つまりはじめから一つの解釈に落とし込みにくいわかりにくさを面白さとして持っている句なのである。カレーの句にはもちろんそのようなものはない。
 断っておくが、私は櫂のカレーの句の良否の判定をしようとしているわけではない。おそらく櫂は、五七五で収まらないことを厭わない関のような句はつくらないし、あらかじめ意味が与えられない記号を使う田島のような句もつくらないだろう。つくれないのではなく、カレーの句を詠むに当たってその態度を選んでいるということ。しかしこの間には深い溝があるし、私が比較して面白みを感じていたりいなかったりするように、そのまったく逆の読者もいるだろう。同じ俳句でありながら、そのようなことは常におこる。以下、その構造へ考察の視点を移す。


 子規の後輩にあたり、九鬼周造や和辻哲郎と同世代の美学者である大西克礼は、日本の伝統的な芸術概念は「パントノミ―(Pantonomie)」的構造を持つと説いた。これは芸術が生活全体と密着しているようなあり方のことを言う。他にこれと対になる二項があって、宗教芸術が芸術全体の主流をなすものを「ヘテロノミー(Heteronomie)」的構造、芸術が自律し芸術のための芸術を目指すようになったものを「アウトノミー(Autonomie)」的構造と言う。大西は、西洋芸術の構造においては、「パントノミー」→「ヘテロノミー」→「アウトノミー」という展開があって芸術が自律していったが、日本においては「パントノミー」的構造が深層においてずっと持続しているという。一例をあげれば、「茶の湯」は、飲食という生活と芸術が一体化して成立している。ただ、それは単純な一体化ではなく、茶室のしつらえに端的に現れるように一旦現実から隔離(「切れ」を内包すると言えよう)された上で総合される特質があるという。さらに大西は、「パントノミー」的構造における芸術では、美的価値が倫理的価値や宗教的価値と結びついていると言う。そして西洋的な孤高の「天才」の独創による芸術とは様相が異なり、茶の湯や俳諧の座の連衆のように誰でも参加可能なものでもあって、その理想が、「型」の「稽古」を通じて「道」を極めた先に辿り着く「名人」の姿であるという。(注)
 子規は、古式を排し、俳句を当時の文学芸術の(西洋中心主義的な)世界標準にしようとしていた。『俳諧大要』冒頭で「美」の多用をもって俳句を定義づけたのはそのためである。いわば俳句のための俳句、文学としての俳句を作ろうとしたのであり、子規は俳句を大西の言う「アウトノミー」的構造にしたと言うことができよう。それに対し、高濱虚子らは、「伝統」の名の下、子規の俳句に後から「パントノミー」的構造を付け足し、近世俳諧との断絶をわかりにくくした。そして大正期に勃興した知的大衆を取り込むことに成功し、虚子らは俳壇のマジョリティを形成することになる。その構造下で多くの人が参加し同じ題と同じ型の稽古をすれば、当然あまたの似た句とその更新の文脈ができあがる。その内部で師または誰からも認められた句を詠む人物が特に時の「名人」として残りうるのだろう。思うに、先の櫂のカレーの句のうまさは、誰も真似できない孤高の「天才」の仕事というより、この文化の内側の人々の思うカレーらしさの最大公約数を的確にとらえ俳句にしたてて見せる現代の「名人」を志す仕事であるように思われる。違う言い方をすれば、大西の言う「パントノミー」的な構造をそなえた、現代の俳句世界における「伝統」を構築する実践である。一方で、関や田島のつくる態度と例にあげた句からは、そのようなものは見出しにくいように思う。そこに通じるものをあげるなら、個としての俳句表現の更新の模索ということになるだろう。
 子規虚子以後の俳句は、先に述べた大枠二つの構造が時勢によって強弱揺れ動きながらも一極にはならず併存して今日に至る。このことは、「伝統」の名を名乗る資格もありえた宗匠俳諧を文化の中心から排除しつつ世俗・大衆的要素の強い俳諧の発句に俳句として「近代文学」の顔をもたせ、近代国語教育によって「古典規範」として定着してきた芭蕉の系譜に連なる顔を持たせることにも成功する。そしてその後の俳人は、時代状況をさまざに汲んで表現と形式に反映させつつ、この二極構造のどこかの立ち位置から己のあるべき俳句像を模索することで多くの論点を招来し、俳句内部に多様性をもたらし、ジャンルの硬直化による衰退を免れてきたように思う。
 一つの句の「解釈」の成立は、主体がその意志で行っているようでありながら、構造の中で働く言葉の力学で変わる。そもそも句の解釈に単純な正解や不正解があるわけではないはずだけれども、構造がそれを引き寄せることはある。そして、人が俳句に何を求めるかでその構造も変容するだろう。現実の世界像は、俳句の構造とは無縁に様々な背景をもつ人々の言語の運用で出来ている。思考実験としてはそれら一切を遮断し構築される純粋なテクストを仮想することもできようが、社会の中の言語実践の仕組みの複雑さを思うとき、俳句のとある一つの構造に入りきることで一種の宗教的情操を帯びるほうがわかりやすくはなるだろう。大西の用語を借りれば、それが「道」ということかと思われる。

(注)大西克礼『東洋的芸術精神』(大西克礼美学コレクション3、書肆心水、二〇一三年)参照。

※初出は『俳句界』2017年10月号掲載の「俳句における「解釈」と「構造」」。一部内容の改変がある。

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2018/07/13

『現代詩手帖』2017年6月号「〈俳句〉という切実な覚悟 田島健一『ただならぬぽ』」

〈俳句〉という切実な覚悟 田島健一『ただならぬぽ』(初出『現代詩手帖』2017年6月号)


 俳句に関わらないものからすれば、俳句は何をどう読んで良いか分からないか、またはどうとでも読めるものではないだろうか。一見してのあまりの情報不足ゆえに。

 ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 

書名の元になっているこの句の「ぽ」の働きは、通常の日本語文脈であれば助詞の代替と考えられるであろう。あるいは、やや巫山戯た感じの言葉遊びとして働く接尾語とも読まれるかもしれない。前者の場合、一つ目の「ぽ」に「が」、二つ目に「よ」を代入すれば、一応海月を主語とした文意が通る。一つ目に「を」を入れて二つ目に「よ」でも、光を主語とした文意が通る。さらに「も」や「に」なら、両方入るだろう。仮に主語をどちらにしても、海の中で「海月」と「光」いずれかが抜かれる状況が現れるだろう。が、それらは一旦置き、解釈上揺れないものに着目すると、「ただならぬ海月」と「光追い抜く」が前景化する。ならばその状況に挟まれているのが「ぽ」だとも読めるだろう。この「ぽ」とは何か。筆者は、三月初旬にこの文を書いている。その〈いま・ここ〉の文脈においたとき、この状況が津波の中だと読んでも許されるかもしれない。ならば「ぽ」は、荒ぶる自然の中に巻き込まれてしまった、眼差し、言葉を発する人間存在の、悲しくぼんやりとした立ち現れなのかもしれない。もちろんそれは、一つの読みに過ぎない。「ぽ」は未だ得体の知れない何かとして、これからの読者を待っている。

 本句集は、文の秩序に沿っても違和感なく読める句を交えつつ、そのような読者を待ち続ける句に満ちている。

 夕立を来る蓬髪の使者は息子
 白鳥定食いつまでも聲かがやくよ
 空がこころの妻の口ぶえ花の昼
 噴水の奥見つめ奥だらけになる
 海みつめ蜜豆みつめ眼が原爆
 晴れやみごとな狐にふれてきし祝日
 梟や息のおわりのきれいな詩

 田島は、通常の日本語のシンタクスに歪みと飛躍を入れることで詩性とリズムを生みだしつつ、句の世界に奥行きと不思議な明るさを作り出してもいる。
 たぶん、俳句が他ジャンルより切実なことは、圧倒的短さの中で読者のもつ文脈(情報)との結び目を構築するにあたっての、自己との対し方とそのあらわれだろう。いま・ここを自分がどう考えているのか、そして俳句表現とは何なのかということを常に問い続けねば、俳句の言葉はたちまちレディ・メイド化するのであり、同時に、言葉を発することがそのまま意味内容の始原である言葉の創造のように、差し上げた指にとまる者がいなければ呼びかけはただ虚しく消えてゆく。その覚悟をもって、「ぽ」はこの世に放たれたのだろう。
(ふらんす堂 1月刊・2400円)

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2018/06/12

「かるみ」のゆくえ(初出「晶21号」2017年7月)

 芭蕉の「かるみ」の説明を文学事典から引くと、以下のようである。
 

芭蕉が、晩年、特に積極的に唱えた文芸理念。理屈をきらうところから生れた枯淡で印象明瞭な作風。また、そのような作風を生み出す詩境そのものを指す場合もある。(中略)頴原退蔵が「かるみ」を「芭蕉が最後に辿り着いた俳諧の境地と説いた」と説いたのに対して、中村俊定は「風躰即ち姿の問題で、芭蕉晩年の新風調の特質としての表現様相に名づけられたもの」と主張した。以後の「かるみ」論は、「境地」と解するか、「風体」と解するかという大きな問題を抱え込んで今日に到っている。(中略)長年「かるみ」に積極的に取り組んできた富山奏は「芭蕉が発句の詠出法として強調した「かるみ」とは本意として内に深遠な伝統的風雅心を宿しながらも、その表現は素朴に、さりげなく眼前の実景描写のように行う手法であった」と指摘している。(『新版近世文学研究事典』平成十八年おうふう)

 ここでは「境地」と「風体」とその折衷の紹介でまとめられているのがわかる。「かるみ」とは何かということに関する芭蕉自身の発言がほとんどないこともあり、それが何かを具体的に確定することは実はなかなか難しいように思われる。しかし、近代を代表する文芸評論家の一人であり、俳句において多くの仕事をなした山本健吉は、晩年の昭和四十年代後半から五十年代にかけて、「『軽み』の論―序説―」(昭和四十九)等の論考で「かるみ」を芭蕉の人生論にかかわる最高の「境地」であり、俳人の指標であると積極的に評価する考察を行った。
 山本によれば、彼の有名な俳句のテーゼ「挨拶・滑稽・即興」のうち、「即興」が「軽み」が重なるものであり、さらに、それはヨーロッパの詩論における「ウィット」、「エスプリ」にあたるものという。さらに俳諧・発句の方法論を超えて「人生論的問題」になるものだと述べている。そして、芭蕉の言う「物の見えたる光」を「生命的なものへの志向」、「ものの命の輝き」と言い換え、それを「俳句の第一の指標」と見て「「軽み」とは「いのち」の自在に嬉戯する姿なのである。」とした。そして反対に、「『重くれ』は『いのち』のこわばり」とも書いた。
 この山本説は、その正否をめぐって俳壇に論争を起こすに至る。そしてこの山本の「かるみ」論に対して最も熱心な反対者の一人が中村草田男であった。最近、この両者の論争について筑紫磐井氏が、「健吉は新興俳句も人間探求派も(中略)嫌いであり、本心は虚子が大好きであったのだ。軽みとは即虚子であった。」(「吼えるライオン―草田男の論争」角川「俳句」本年五月号)と面白い指摘をしている。これを踏まえて言えば山本にとって虚子は限りなく芭蕉と同等の存在ということになるが、本当にそれほど虚子を認めていたかどうか筆者には確証がない。本稿では違った視点で後ほど虚子に触れる。
 先に述べたように、山本は「かるみ」と「重くれ」を対立する二項として設定し、まるで善悪のように当てはめてしまった。それはあたかも東西冷戦下の型に嵌まった世界設定のように古びた印象を受ける。この山本の物言いを結論から遡行して考えてみれば、芭蕉という一俳人の人生の営為を物差しとしてすべての俳人を俯瞰するようなピラミッド構造になっているように見える。そして「重くれ」は、そのピラミッドの底辺に押し込められ、未完成のような扱いになるだろう。それは言わば偏ったヒエラルキーによる世界へのまなざしの変更要求に近い。
 さて、草田男の健吉のかるみ論に対する発言は、講演集『俳句と人生』(平成十二年みすず書房)で読むことができる。草田男は「軽み」を「最高の境地」、「最高の目的」とは思えないとし、それが流行している状況は諦念にのった一種の「敗北主義」だとした上で、「われわれが芸術を作るというのは、もっと深い、もっと永久的な命のあり場を探って、そして身につけ、心につけ、一分一厘でもそういう世界を作品の世界の中で実現させようと考えるからです。」(同書「『軽み』について」)と言う。
 また、この『俳句と人生』の巻末の「万緑編集部」名で書かれている解説では、山本の論が「俳壇に『おもくれ』や思想性の軽視といった風潮を生む原因となったともいえる」と批判し、「一美的範疇を、健吉が芭蕉文学の根本本質へと転化させ、その深い寂寥感と呼ぶべきものと同一視しはじめたこと、このことばかりは草田男はけっして承知しなかった」と述べ、事の本質を批評家と作家の観点の対立と捉えた上で、山本の論を「詩の出現の母体である『おどろき』とは直接なんのかかわりもない」という。
 この解説の筆者が誰なのかは記名がないが、「かるみ」を芭蕉の本質ではなく「一美的範疇」と捉える視点は、西洋美学的なものと言えるだろう。しかし、先ほど見たように、山本は厳密には「かるみ」を芭蕉個人の文学の本質どころか、俳句を越えて人生論に至るものとまで考えているのであり、両者の対立はさらに溝が深いように見える。しかし、あらためてやや俯瞰して見ると、彼らの論争は「議論」というより「言い争い」に近い。対立する論点についてそれぞれがそれぞれの正しさを主張をしているが、結局それが並んでいるだけであって、議論ならばそこにあらまほしき止揚された第三項は存在しない。そして結局「かるみ」とは一体何なのか、今もなお茫洋としたままではないだろうか。では、いまここでこの論争を引き受けてゆくことに、何らかの意義を見いだすことはできるだろうか。

 九鬼周造や和辻哲郎と同世代の美学者である大西克礼は、日本の伝統的な芸術概念に対し「パントノミ―(Pantonomie)」的構造というものを説いている。それは芸術が生活全体と密着しているようなあり方のことであり、いわゆる「民芸」運動の根本概念にも近いかもしれない。これと対になる二項があっって、宗教芸術が芸術全体の主流をなすものを「ヘテロノミー(Heteronomie)」的構造、芸術が自律し芸術のための芸術を目指すようになったものを「アウトノミー(Autonomie)」的構造と言う。
 そして西洋芸術の構造においては、「パントノミー」→「ヘテロノミー」→「アウトノミー」という展開があって芸術が自律していったが、日本においては「パントノミー」的構造が深層においてずっと持続していると大西は言う。そこには、例えば「茶の湯」に見られるように、生活と芸術の単純素朴な一体化ではなく、一旦隔離された上で総合される(「切れ」を内包する)特質があるのだという。さらに大西は、「パントノミー」的構造における芸術では、美的価値が倫理的価値や宗教的価値と結びついているとも説く。その理想型が、「型」の「稽古」を通じて「道」を極めた先に辿り着く「名人」の姿である。これは西洋的な「天才」の独創が辿り着く芸術とだいぶ様相が異なり、茶の湯や俳諧の座の連衆のように誰でも参加可能なものでもあると言う。
 このように、大西の構想は、ドイツ美学における美的範疇論に軸をおきつつ、西洋と日本の芸術概念のありようを巨視的、体系的に考察したものである。詳細をここで述べる余裕はないが、その文脈で日本の伝統的な「美的範疇」である「あはれ」「幽玄」「さび」などの考察を行っている。

 ここで正岡子規が『俳諧大要』冒頭で「美」の多用をもって俳句を定義づけたのを思いだそう。あれは、俳句を当時の文学芸術の西洋中心主義的な世界標準で語る試みであるが、大西の言う「アウトノミー」的構造で俳句を定義したと言うこともできるだろう。一方で、高濱虚子らその後継の俳人は「伝統」の名の下、子規の俳句に「パントノミー」的構造を後から付与していったと言うことができよう。以後俳句の歴史は、その両構造が矛盾をはらみながら併存する形で今日に至っていると思われる。このことは、片や大衆的な要素の強い俳句に「近代文学」としての顔をもたせることで宗匠俳諧と差異化し、片や「古典文学」として芭蕉の系譜に連なる顔を持たせることになった。そして両者がそれぞれのあるべき姿を模索することで多くの論点を招来し、ジャンルのダイナミズムの原動力となり、その衰退を防いできたといえるのではないか。 
 そのような観点にたつとき、山本健吉の「かるみ」説は、近代俳句にさらなる「パントノミー」的構造をもたらす試みであったということもできる。しかし、「かるみ」に「重くれ」(アウトノミー的構造とも考えられよう)を対置して二項対立構造を持ち込んだことによって、自ら抜け出せない隘路に入り込んでしまったのではないだろうか。また、草田男(と講演集の解説)の主張は、「アウトノミー」的構造の側に立つと見ることができるだろう。彼らがシンプルに西洋芸術的な天才の営為の側に立った時、山本の「かるみ」を否定するのはよくわかる。しかし、近代以降の俳句を語る時、それが必ずしも〈正しい〉わけではないということを、大西の説は教えてくれているように思う。「かるみ」のゆくえは、いまだ定まったわけではないのだろう。

(付記)大西克礼の論考の理解にあたっては、田中久文著『日本美を哲学する あはれ・幽玄・さび・いき』(二〇一三年青土社)に多く拠っている。この場を借りて御礼申し上げる。但し、本稿において大西の論の理解に不備があるとすれば、ひとえに筆者の浅学非才によるものである。

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