2020/08/04

句集『符籙』刊行約一ヶ月・・・

句集『符籙』刊行約一ヶ月 が経ちました。以下、ブログ等でいただいた反応(順不同)。皆様ありがとうございます。その後の反応も気づいたら加えてゆきます。

 

石原ユキオさん

http://d-mc.ne.jp/blog/575/?p=2623

 

豆ぐみさん

https://bookmeter.com/books/16119511

 

関悦史さん

https://kanchu-haiku.typepad.jp/blog/2020/07/十五句抄出橋本直句集符籙.html

 

大井恒行さん

http://ooikomon.blogspot.com/2020/07/blog-post_6.html

 

田中槐さん

https://www.instagram.com/p/CCDhUoADhK9/?igshid=1pc0bypirslur

 

成田一子さん

https://ameblo.jp/197001301co/entry-12608760449.html

 

西村麒麟さん

https://ameblo.jp/kirin819/entry-12609031465.html

 

赤野四羽さん

https://akanoyotsuba.hatenablog.com/entry/2020/07/20/000657

 

junyoさん

https://junyobook.hatenablog.com/entry/2020/07/26/125329

 

岡田由季さん

https://michikusa-haiku.blogspot.com/2020/08/blog-post_4.html

 

杉山久子さん

http://chakolate.blog.fc2.com/blog-entry-296.html 

 

栗林浩さん

https://kuribayashinoburogu.at.webry.info/202007/article_1.html

 

堀切克洋さん

https://sectpoclit.com/かき氷日本を捨てる話して%E3%80%80%E3%80%80橋本直/

 

相子智恵さん

http://hw02.blogspot.com/2020/07/blog-post_6.html

 

大松達知さん

https://www.facebook.com/tatsu.omatsu/posts/3082076355201472

https://www.facebook.com/tatsu.omatsu/posts/3084485578293883

https://www.facebook.com/tatsu.omatsu/posts/3092904220785352

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020/06/13

第一句集

左右社より第一句集をだすことにしました。お読みいただけると幸いです。

 

『符籙』 

左右社

Amazon

 

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2019/08/29

子規の句会について(初出「鬼」19号 07年5月)

子規の句会について         

 

 

    一、はじめに    

 今年は子規の生誕一四〇年である。もし彼が百歳の長寿を保ったなら、私が生まれた頃まだ彼は生きていることになる。それくらいの時間の間に彼の手によって近代俳句が生まれ、今に繋がったわけだ。では子規は、どんな句会をやっていたのであろう。『子規全集』第十五巻には、明治二四年から三五年の間に行われた合計一五八回分の句会稿が収録されている。もちろん実際にはこれがすべてではないだろうし、一期一会の座の雰囲気など再現すべくもないが、彼の仲間達の証言により、句会の様子をある程度知ることができる。まずは、今に通ずる句会の「いできはじめ」の頃の様子をちょっと覗いてみようと思う。


 全集で記録に残るもっとも古い句会稿は、明治二四年八月三一日。「岸の細波」と題されている。書式の都合か「会者」は正岡子規、武市雪燈(子規の誌友)、河東可全(碧梧桐の四兄)、高濱虚子、河東碧梧桐、柳原極堂、竹村其十(伽羅男。碧梧桐の三兄)とあるが、これは紛らわしい。「解題」や年譜をあわせ見ると、松山の虚子宅で行われたもので、当日は子規と極堂、其十は参加せず、欠席投句や後日句評を入れているものである。はじめは「連俳」で、武市雪燈と河東可全の二名で発句は雪燈「あいさつを二度言ふときやかりのこゑ」脇を可全が付け「まかき取りまく朝かほの花」第三を雪燈「空も様二百十日のちかつきて」と続いていく。どういう経緯かわからないが、歌仙で言えば初裏の六句目まで詠んで中断しており、なぜかいないはずの子規の句が初裏二句目にあって「羽おりたゝんで行く太皷医者」。そのあと、虚子、碧梧桐らも加わって新たに歌仙が巻かれていくから、経験者がお手本を示したというものか。面白いのは評の書き込みで、例えば雪燈の発句に対し、虚子が「『あいさつはとぎれてそらに雁のこゑ』としてはいかにや」と評せば、子規が「此句の方がいくらかよし」と書き込んでいる。同郷のよしみか万事この調子で、初心の虚子も遠慮がない。この頃、当たり前のことながら、題詠や雑詠で連句の形式の句会が行われた。それしかなかったのである。

 

     二、「競吟」の時代      

 全集解題によれば、子規は二五年末まで句会の作法を知らなかった。鳴雪の回想「吾々の俳句会の変遷」(『ホトトギス』大正二年六月)によると、それぞれが勝手に句作して互いに批評しあっていたという。そんな明治二五年の句会の方法で目立つのは、「競吟(せりぎん)」という方法である。先述の鳴雪の回想によると、「何分間と言ふ時間を定めて置いて、其の間に幾句でも題に従つて多数を作つて其の多きを誇り、又多き中に善き句の多きを誇るといふやうなことをしてゐた」という。確認した限りで記録に残る最も古い競吟は同年七月一五日。会者は子規、碧梧桐、虚子である。お題は「梅干」「雨乞」「打水」「昼顔」「風薫る」。それぞれ制限時間は不明だが、「梅干」で子規は七句、碧梧桐は三句。虚子は一句。「雨乞」で子規六句、碧梧桐五句、虚子三句。「打水」で子規四句、碧梧桐三句、虚子四句。「昼顔」で子規四句、碧梧桐四句、虚子三句。「風薫る」で子規五句、碧梧桐五句、虚子四句を詠んでいる。句数からいって一題五分程度であったか。それぞれの題における高点句を抄出すると、

  梅ほすや庵のぐるりは日のさかり  碧梧桐 子規、虚子とも二点。

「俳句分類」の賜物だろうか、「栗刈て庵のぐるりや初月夜」(木因)と付記がある。類想があることもわかった上で善しとされていたようである。

  雨こひや天にひゝけとうつ太鼓   子規    碧梧桐、虚子ともに一点。   
  雨乞にまた出て来たり雲の峰    虚子    子規二点。
  打ちあけた水風蘭に届きけり    子規    碧梧桐、虚子とも一点。  
  打水にくづれし月の若葉哉     虚子    子規二点。  
  うち水のあとを夕立の走り哉    虚子    子規二点。  
  昼かほは蝶の遊はぬさかり哉    子規    虚子二点、碧梧桐一点。  
  ひるかほののなりなからに暑さ哉  虚子    子規、碧梧桐ともに一点。
  とま舟の行方を風に薫りけり    虚子    子規、碧梧桐ともに一点。
  並松のみさき廻りて風薫      虚子    子規二点。

 句会稿を眺めていると、いつもいつもという訳ではないが、この会は虚子が冴えており、かつ子規が高点を入れていることがわかる。子規という人は統計を取って誰が誰に点を入れる傾向があるかまで分析していたそうだから、碧梧桐と比べて虚子のほうが好みであることを既に明瞭に意識していただろう。それにしても、この「競吟(せりぎん)」という方法は、鳴雪の言葉通り分単位で制限時間内になるべくたくさん善い句を詠むということを目的とする形式だったとすれば、決まった時間内にいかに効率よく不良品を出さずに大量に生産するかということを至上の命題にした近代社会のもった性質に実によく似ている。
 ここで少し伝記的事実に触れておきたい。明治二四年は子規と虚子の邂逅の年であり、子規が俳句分類をはじめた年である。子規は文科大学哲学科から国文科へ転科したものの、「脳病」で試験を放棄し旅行に出た。追試には及第したものの、翌年には落第が決定し退学を決意するに至る。その間、小説「月の都」を書いたが、小説家になることはかなわず、「日本新聞」に入社した。ひっかかるのは「脳病」である。彼の人生の転機の原因であったと言ってもいいほどである。おそらくは学業のストレスで鬱のような状態になり、勉強が手につかなくなり療養のために旅行に出かけているのであろう。のち「墨汁一滴」では以下のように回想する。

 「明治二十二年の五月に始めて咯血(かっけつ)した。その後は脳が悪くなつて試験がいよいよいやになつた。明治二十四年の春哲学の試験があるのでこの時も非常に脳を痛めた。ブツセ先生の哲学総論であつたが余にはその哲学が少しも分らない。一例をいふとサブスタンスのレアリテーはあるかないかといふやうな事がいきなり書いてある。レアリテーが何の事だか分らぬにあるかないか分るはずがない。哲学といふ者はこんなに分らぬ者なら余は哲学なんかやりたくないと思ふた。(中略)哲学も分らぬが蒟蒻板も明瞭でない、おまけに頭脳が悪いと来てゐるから分りやうはない。二十頁も読むともういやになつて頭がボーとしてしまふから、直(すぐ)に一本の鉛筆と一冊の手帳とを持つて散歩に出る。外へ出ると春の末のうららかな天気で、桜は八重も散つてしまふて、野道にはげんげんが盛りである。何か発句にはなるまいかと思ひながら畦道(あぜみち)などをぶらりぶらりと歩行(ある)いて居るとその愉快さはまたとはない。脳病なんかは影も留めない。一時間ばかりも散歩するとまた二階へ帰る。しかし帰るとくたびれて居るので直に哲学の勉強などに取り掛る気はない。手帳をひろげて半出来の発句を頻(しき)りに作り直して見たりする。この時はまだ発句などは少しも分らぬ頃であるけれどさういふ時の方がかへつて興が多い。つまらない一句が出来ると非常の名句のやうに思ふて無暗に嬉しい時代だ。」(「墨汁一滴」六月十五日)    

 「レアリテー」が分からないことを書いたのは自分への皮肉だろう。子規は江戸の末年に生まれている。もし明治維新がなければ、あるいはあと100年ばかり早く生まれていれば、彼が「脳病」などという病を口にすることもなく、あるいはもしなにか憂鬱に苛まれ精神に異常をきたすことがあったとしても、それは「憑きもの」でも憑いたということになり、近所の坊主か神主がお払いをしたか、あるいは遠くの名のある神社仏閣へお参りに行ったか、そうでもなければ流れ者の霊媒師や祈祷師の類がお払いにきたであろう。そしてそれなりに松山藩の武士としての生涯を過ごし生涯を終えただろう。そのような「憑かれた」人は、ある日突然やってきた「近代」という時代の中で、日本は一刻も早く西洋文明に追いつかねばならないという文脈に身を置かれると、その西洋文明からやってきた最先端の「科学」である、医学によって自らを「脳病」と呼ぶことになってしまう。
 彼らは生まれてすぐ文明開化、和魂洋才、富国強兵の為の国家有用の人材か否か、という苛烈な人生の文脈の中へ放り込まれてしまった。まして子規は松山藩という「負け組」の下級武士の子である。実力で身を立てるかしかなく、頼みになるのは自分の肉体と「脳」しかない。一個の人として決して無能ではない、いや、むしろ驚くほど明敏で有能な子規は、これに耐えきれずレールからおりることになった。この時代、結核菌に冒されることと精神を病むことは2大文明病といっていいだろう。一時期にせよ喀血し、精神を病んだという自意識をもった子規は、国家有用の人材というレールからおりる要件をともにそなえてしまったことになる。同時に、引用にあるように句作が楽しくてしょうがなくなるのである。現代の「鬱」とか、登校拒否の学生やニートと言われる人々、家の中に引きこもってゲームやネットをやって一日を過ごす人々のもっているメンタリティと、この時期の子規の「脳病」との間にそんなに大差があるとは思えない。脳病になって登校拒否をして、旅に出て句作をすれば楽しいのだ。子規は大原恒徳宛の書簡に「脳病(憂鬱病の類)」と書いている。漱石も熊本五高辞職願に「神経衰弱」と書いたという。この時期の子規にとって、俳句を詠むことは、単純な快楽であった一方で、いわば心身を守るための現実逃避でもあり、古来文人のした無為自然の境地への近道に見えていたのかもしれず、いずれにせよこの時期が彼のアイデンティティの危機であった。そんな子規が句会で「競吟」をするのは皮肉である。まだまだ大文学者正岡子規の姿は見えない。

 

   三、運座    

 明治二四年には三回しか残っていない句会の記録が、明治二五年は九回になり、明治二六年には四十回にもなっている。彼の生涯で最多の句会数であり、全集の中だけで言えば四分の一をしめる。急速な増加だと言って良いだろう。この年、彼らの句会は劇的な変化を遂げた。伊藤松宇のグループ「椎の友会」から互選の運座の方法を学ぶのである。

「明治二十六年正月に、或る時子規居士が私の宅へ来て話すのは(中略)運座という方法でしたが却々面白い、遂に徹夜して今朝帰つてきたのであると言つた(中略)運座といふはどんなことかと思つたら、幾つかの題を出して、其題を紙の端へ記して、その紙を座の順によつて廻す、廻つて来た紙へ其の題の句を一句づゝ書き込む。斯くの如く一順廻ると其の題に座中の人々の句が揃ふのである。尤も其の紙を廻す時には、一句を書き込む毎に直ぐ折込んで了ふから次ぎに書く人は其の句を見ることが出来ぬので人の句を剽窃することは出来ぬのである。で、斯様にして数題を銘々が作ると、それを一枚づゝ分けて銘々が筆記して、尤も匿名にしておいて、それを互選する。」( 内藤鳴雪「吾々の俳句会の変遷」(『ホトトギス』大正二年六月))

  この鳴雪の要を得た回想によってわかるとおり、今の句会の形式とほぼ同じものといって差し支えあるまい。さらに宗匠岡本半翠の句会で袋に句を入れてまわすことをやっていたことから、それを互選の運座にも応用して、いわゆる「袋回し」の方法が確立したという。清記をはさんでいないようなので、筆跡で作者がわかる難点をどうクリアしていたのか不明だが、ともかくも鳴雪は「椎の友会」から互選の運座がはじまったのだということを、時代の証言者として特に強調している。宗匠をおかないこのやり方は、若い子規達の感覚に良く合っていたのだろう。互選句会の数が増え、参加者も格段に増加した。そしてこの年、もっとも参加者が多かったのが、「芭蕉忌」である。十一月十九日に子規が主唱し上野養寿院で芭蕉二百年忌の句会を行った。句会には藪鶯、素香、桃雨、松宇、子規、紫影、爛腸、非風、飄亭、古白が参加し、鳴雪、桂山、碧梧桐、狙酔、猿男、得中、孤松、可全、虚子、五洲が欠席投句。総勢二十名ということになる。句会稿には日付の後「午前九時ヨリ上野公園外桜木町養寿院(準提観音)ニ於テ開ク」とあって、参加者の後に「当日天気晴朗空に微雲無ク樹ニ微風無シ」と記されている。当然句の数も題も多いので、主な高点句のみをあげておく。   

  子を抱て猿のしくるゝ岩間哉  飄亭
  月の洲に足もと暗き千鳥哉   古白
  初冬の梢に高し烏瓜      得中
  凩や鼬顔出す倉の窓      狙酔
  凩や水なき空を吹き盡す    碧梧桐
  枯れ盡す祗園新地の柳かな   飄亭

 これより前、十一月六日に「日本」に「芭蕉翁の一驚」を書き、二百年忌を利用し金を儲けようとする旧派宗匠を痛烈に批判した子規は、十三日から本格的な芭蕉論である「芭蕉雑談」の連載を開始している(後に『増補再版獺祭書屋俳話』所収)。
 また、この年の終わり頃の十二月三日の句会では、まず互選の句会を行った後で、三回にわたって「名々宗匠」なる表題をつけて、題毎に選者を交代し選をする句会を行っている。そして各選者には「○○宗匠」と名付けてさえもいる。これはちょっとふざけていて、旧派宗匠への皮肉を感じる。他の人の選が表に出てこないからたしかに一題に限り「宗匠」の句会のやりかただが、それがローテーションでまわり、担当する題も変わるのであるから、いわば変則的互選でユニークである。各人の選に皆の注目が集まるので、その力量が試されただろう。しかし、場に出た句のすべてが見られず、選者にならなかった他の参加者がどの句を選んだかも記録に残らない憾みがあり、回覧には不向きだったためかこの方法は続いていない。所詮遊び半分でもあっただろう。
 この他の方法として、題毎に優劣を判定した上で更に全体から佳句を選ぶという二重の選句を試みた句会の記録が一つ残っている。また、句会とはやや異なるが、二名で同じ題の句の優劣を判定する「句合せ」を何度か試みている(最も古い「桜句合せ」は子規が一人二役)。「日本」(明治二六年四月一日・十三日)に載ったものは、鳴雪と古白の作で判者が子規。五題で競われており、一例をあげると

  左 倶利伽羅の雪やなだれん帰る雁   木曽の山人
  右 帰る雁沖白う夜は風寒し      由良の舟人

の二句に対し、子規の判定は「帰る雁に越山の雪なたれを思ひつきたる疎句疎ならぬ処景色大にして面白し沖白き朧夜のさま思ひ至らぬにはあらねど先づ先の勝にや侍らん」という具合。左の文学的連想の働きやすい材の意外な取り合わせを評価しているようだ。作者をはっきりと明かしてはいないが、おそらく「木曽の」が鳴雪であろう。
 明治二十六年で句会がこんなに増加しているのに、年の初めの二月二日の虚子宛の書簡では、椎の友会と合併して運座で句会をしていると、はじめは面白かったが「今は俗気紛々として少々いや気に相成申候」と書いている。しかし、子規は本気で「いや」と書いたのであろうか。全集十五巻の「解題」で和田茂樹氏はこの点に触れて、互選方式への移行を「各個人を主体とする点、さらに近代化した方式といえよう」と評価した上で、「しかし、主体の文学性に問題がある」と述べておられる。子規のいやがる「俗気」をそのように解されたが、ちょっと違う気がする。あるいは、句会の方法で「主体の文学性」を問題視すること自体にも問題はあるだろう。
 この引用部分の後、子規の書簡には「小生抔ハ毎度失敗をとり申候(尤名句なき故に御坐候)右様の訳故どうしても発句に俗気を帯びてどうか高点を得たいとの念許り盛んに相成候 それ故ニ貴句及女月旭渓諸子の句を読んで大ニ其俗気なきに感し申候・・・」と続き、自分は今運座でしか句を読まないから俗気が抜けない。君は天保以降の俳書は読むな、という風に結ばれる。
 そもそも子規のこの言い方も既に矛盾を自覚している。俗気は句会の所為だというが、それは則ち句を詠む動機にもなる訳で、この年の句会の数の増加は子規のやる気の証明にもなろう。それだけ句会が楽しくて楽しくてしょうがなかったのだ。だからこそ句会で点が入らなければいい気はしないし、高得点を狙う意識がでてきて俗気をもたざるをえない。
 句会は楽しいが、俗気が抜けない。子規にとって句会とはアンビバレントなものであった。それはこの平成の世でもなんら変わりなく続く問題である。百年続くからにはもはや句会というものを止めない限り、「俳句」そのものの性質に根ざす「病」といっても差し支えないだろう。そして、そのような俗な性質を持つ俳句とどう向き合っていくのかという「志」が常に未来の俳句の問題としてあるのだろう。句会のもつ遊びの楽しさは大事にしつつ、その俗気を俳句界全体に蔓延させない「志」を意識すること。さすがに子規もそこまで考えないといけないほど俳句を詠む人が多くなるとは思っていなかったようだ。  

 

 

 

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2019/06/15

「花鳥諷詠」2006

   「花鳥諷詠」2006(初出「鬼」18号 2006年11月。一部改編がある)
                 

 

      一、花鳥諷詠の過去・現在

 

 近年、没後五十年に向かって高浜虚子は称揚される傾向にあると言っても良いだろう。その実例を二つあげると、まず、岩波文庫。基本図書と言っていい子規の『俳諧大要』がちっとも再版されないのに、虚子のものは増えている。これからも増えるのかもしれない。そして、最も新しい俳句の事典である『現代俳句大事典』(三省堂二〇〇五年十一月)の「花鳥諷詠」の項の執筆担当は稲畑汀子である。後代に残るものとして、同時代における客観性が要求されるはずのこの種のものに、組織の当事者しかもその領袖が書いているなんてそれだけでちょっとびっくりなくらいえこひいき。しかし、それによって逆説的にいま/ここにおける「ホトトギス」の「花鳥諷詠」観など読むことができる。これはいわば稲畑版のマニフェストとすらいってもよいのではないか。事典の理想の一極からみると完全に失格だが、当たり障りのない事実の羅列よりよっぽど面白い。おそらくそれは、後代から見ても同様であろう。その内容は一応しっかりしたもので、なかでも虚子の「花鳥諷詠」における自然のなかに含まれる人事の面を強調し、日本の伝統的な思想や詩歌の伝統はこうだ、と強調するところはさすがである。しかし、問題がないわけではない。例えば、以下の部分。

 彼等(文中「アンチ花鳥諷詠論者」のこと・・・引用者)は自ら意識しているといないとにかかわらず、明治以後日本に入ってきた二項対立的な西洋形而上学に捕われているため自然と人間を対立的に考えて、人間もまた自然の一部であるという考え方が理解できないのではなかろうか。

「できない」と現在形で書かれているから、二十一世紀の俳人に向かって書かれたものであることは明瞭だ。いまどき無意識に二項対立にとらわれるなんて本気で書いてるならかなり噴飯ものだし、嫌味で書いているなら「アンチ花鳥諷詠論者」にあたる人は相当なめられている。本気で怒らねばならないだろう。そもそもアンチか否かって書き方の設定自体、しっかり「二項対立的」でいい気はしない。いい気がしないといえばこれはまるで踏み絵のようでもある。私などアンチ花鳥諷詠でも親花鳥諷詠でもないものはどうせよというのだろうか。それにしても、この書き方には、虚子の同時代からの視点が欠けている。

 「花鳥諷詠真骨頂漢」と虚子から言われた川端茅舎は、「花鳥諷詠」について、以下のようなことを言っていた。

 俳句は花鳥を諷詠する以外の目的をば一切排撃することによつて、種々の雑多な目的を持つた他の芸術と毅然と対してゐる。又僕は斯様な啓蒙めく言葉を繰返して置きたい。/然し、時代の問題へ驀地(まっしぐら)に突進する事が勿論勇気を要する如く、花鳥を諷詠する以外の目的を一切排撃する事も亦聊か勇猛な精進を要求する。それゆゑ何か意味ありげな目的の偶像を破壊し得ぬ人達は花鳥諷詠の律法に得堪へず頻々この陣営から遁走した。僕は虚子先生の平明な花鳥諷詠の説話の底に常々斯様な峻厳さを発見する。さうして花鳥諷詠の存在の意義を確かにする。(「花鳥巡礼」第二回 「ホトトギス」昭和九年一月)

 この文脈において、「種々の雑多な目的を持つた他の芸術」と異なるというのであれば「花鳥を諷詠」するという言い様から人事を含むことを読み取るのはちょっと難しいと言わねばなるまい。しかも、それ以外は目的を「一切排撃する」とまでいうのである。また、この文中における「何か意味ありげな目的の偶像」が何をさすかも明らかであろう。それは俳句にかぎらず、当時隆盛の新興芸術やプロレタリア芸術と一線をひくこと、すなわち同時代に距離を置くことも「勇猛な精進」だと言うことである。ある意味で、それは賢明な選択であったろう。

 また、やや時代はくだるが、この茅舎の句について、上村占魚は富沢赤黄男の句と比較し、以下のように述べている。

 ここで、一寸思いついたのでいつておくが、前に引いた『華厳』のなかの一句に

   ひらゝゝと月光降りぬ貝割菜

があつた。後年、この句に似た、

   月光の針がふるただ針がふる  富沢赤黄男

がある。「針がふる」は一見、鋭い感覚のやうにおもへるが、実はわかりきつた生の感情であり、感覚が観念化されてゐて、直接に自然から感得したものではない。智的働きに傾いた句であつて、茅舎の句とは似ても非なるものであると同時に、「花鳥諷詠」句ではない。もとより赤黄男氏は花鳥諷詠の同志ではない。だから、かかる表現即ち「針がふる」といつたやうな手法がとられるのだろうが、浮き足だつた言葉の軽さがある。「花鳥諷詠」を根底に貫く写生は、ものの髄に肉迫しやまぬものである。(中略)「花鳥諷詠」精神を離れた俳句の表現のおほかたは、頭の中のこねくり細工になつてゐる。(中略)彼らはわかりにくいものに深味があり、わかりにくいがために生ずる抵抗を何らかの価値でもあるかのごとくに誤解してゐる向が少なくない。 (「「花鳥諷詠」私見」 「俳句」昭和四十九年九月)

 これを端的に言えば「ものの髄」vs「頭の中のこねくり細工」という把握。たしかに、あげられている茅舎の句「ひらゝゝと月光降りぬ貝割菜」は事実を描写しているだけのように見えるけど、ひらひらとふる月光って把握の仕方ならば「花鳥諷詠」的なのだろうか。占魚は降るのが「月光」か「月光の針」であるかの差を問題にしている。が、そもそもここで『華厳』から例示したのは、果たして正しかったのか。虚子が「花鳥諷詠真骨頂漢」と述べたことで、茅舎句はこのような例出に使われることになっているが、実際はそんな典型的なものではないと思う。例えば、『華厳』において見いだせる茅舎の句。

   枯木立月光棒のごときかな

この句は先に引いた茅舎の文より一年後の昭和十年の作である。つまり、充分に虚子の花鳥諷詠を意識しているはずのころである。この句で寒林にふる月光を「棒のごとき」と把握しているが、先の赤黄男の句のように月光の把握を「針」とするのと、この茅舎の句のように「棒」としたその感性の間に、花鳥諷詠とアンチ花鳥諷詠という二項対立の図式をつくるほど大差があるとは思えない。棒はよくて針は「簡単なる句」を逸脱しているというのだろうか。筆者には赤黄男の句のリフレインの間にはいる「ただ」のほうがよほどひっかかる。
 なお、このような比況の助動詞をもちいた句は、虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」(昭和二十五年)が良く知られているが、『華厳』における茅舎の句にも、このいわゆる「如し俳句」が見られる。

  芭蕉葉や破船のごとく草の中

  老杉の髪のごとくに良夜かな

  瀧行者蓑のごとくに打ち震ひ

 この句集は良く知られているとおり虚子の選になるものである。先に引いたが有名な「花鳥諷詠真骨頂漢」との茅舎評が「序」に書かれてもいる。しかし、このように「棒」「破船」「髪」「蓑」という人間のつくった道具あるいは人間の一部に喩えられる「月光」「芭蕉葉」「老杉」「瀧行者」という「自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象」は、「花鳥諷詠」として虚子が講演で語った内容の質に釣り合うのだろうか。少なくとも、筆者には違和感がある。この当時の虚子=「ホトトギス」の俳句の表現の自由度は、汀子や占魚の考えているようなものではなく、一線を引いたはずの時代を反映して案外に多様だったのではないのか。飯田龍太は、

「花鳥諷詠真骨頂漢」は、ある意味で、茅舎に対して虚子がブレーキをかけたんじゃないかと思うね。(中略)茅舎自体は、「花鳥諷詠真骨頂漢」という、非常にきつい序文を一つの鞭として甘受したんじゃないかと思う。だから次の句集の『白痴』になると、抽象的、観念的になるね。(対談集『俳句の現在』〈平成元年 富士見書房〉より発言を抜粋)

と述べている。論と実作、師と弟子、作家対作家という視点にたって考えるとき、「花鳥諷詠」と呼ばれるもののできあがってきた経緯とその内容の理解はそう簡単ではない。現代の視点から溯って歴史の教科書の如く一本の軸線上において説明するのは、わかりやすいがしかし、やはり安易と言わねばならないだろう。

      二、花鳥諷詠の未来

 前章で引いた『現代俳句大事典』「花鳥諷詠」の項の執筆者は、繰り返すが稲畑汀子である。その終わりの部分はこうだ。

 自然破壊、環境破壊が進む現在、人間も草木もとに宇宙の命を分け合っているという虚子の生命観は西洋的な世界観に大きなインパクトを与えるであろう。

結局この項もまた対西洋という二項対立的世界観で書かれていることがわかるけれども、この部分を取り上げたのは、虚子の「花鳥諷詠」が、現代において「西洋的な世界観」のもたらした「自然破壊、環境破壊」と対立する思想としてなにか機能してくれそうなニュアンスをもって「インパクトを与える」などと書かれていることが批判されねばならないからである。自然破壊なんて太古からやってきたことではあるが、近代に入ってからは一旦戦争なぞしてしまえば、ものすごい暴力的な自然破壊がおこる。しかし、虚子の「花鳥諷詠」は、戦争が起きようが(つまり結果として自然が破壊されようが)、それに影響されず自然を諷詠するものであると本人が言ったはずだ。虚子以後のことを鑑みても、高度成長期以降の自然破壊も同様であったはずだが、そこで「花鳥諷詠」が何か機能したとでもいうのであろうか。

 私は近代の人間の脳の肥大化、人間の傲慢に対して、人間を小さく花鳥を大きくというのは、強烈な近代批判であるし、現代の先端に立つ思想だと考えることも出来るんじゃないかと思います。(川崎展宏「南風」70周年記念大会記念講演「高濱虚子―今、思うこと―」二〇〇三年十月五日 於 新阪急ホテル花の間)

 かつて、虚子は社会問題にコミットする言動は微妙に避けていた。「ホトトギス」は、それによってここまでの繁栄を得た部分があろう。そして、虚子を擁護するものによって、何も言わない点は補完されてきた。川崎氏は有力な虚子擁護の論客である。汀子の言説がこの川崎展宏の述べる方向性と同じことはあきらかで、もしかしたら、稿を起こすにあたってこのような意見に力を得たのかもしれない。だが、この話はあくまで頭の中での話だ。現実はどの方向を向いているのであろうか。実際の俳句の世界は右を向いても左を向いても自然破壊や環境破壊などないかの如き世界ではないのか。厳しく言えばこれらの物言いは欺瞞である。人間を小さくとらえ、自然を大きくとらえることで、自然に甘え、自然を壊すことへの罪の意識が無化されてきたことへの反省が皆無ではないか。

 さらに、この生命観が虚子のオリジナルであるかの如き書き方になっていることもまた同様に不適切である。これは恣意的なものと思うが、日本の思想の伝統というなら、虚子の発明ではないことははじめからわかっているはずである。筆者は以前以下のように書いた。

 自然を詠む、というときの自然を見、見るだけでなく自然との一体化まで標榜し、愛でる「感性」は、どうにもならないほど自然を傷めてしまうことへの抑止へとどうしてつながらないのか。恐ろしいのは、先の本ごとく、「ダムの「感動」」を標榜したかもしれない「感性」が、今現在、俳句をつくり、自然を深く愛しているとのたまったり、自然と人生を重ねしみじみしちゃったりできてしまうことや、自分らでさんざん自然を打ち壊した昭和前期を、内省なんかすっ飛ばして、心象として懐かしむような「感性」を持っているかもしれないことである。そこにはそこはかとない風情やら悲しみは漂っても、反省や批判は薄い。それは、自己の持つ興味の外へ関心が向かないという批判を受ける意味での若い「オタク」達となんらかわりはない。ただ年をとっていて数が多いだけだ。そこに美学はあるのか。
 この六十年の間、外部に対しては、自らの選択によって環境を継続的、且つ、劇的に変化させてきた。それによって俳句は影響を受けない、なんて虚子みたいなことはいってほしくないものだ。俳句を作る人の感性は変化した部分があるはずである。人は自然や社会が変化したときそれにあわせて自己の感覚を変化させてもきたはずだ。しかも、柄谷行人のいう「起源」ではないが、変化する前の感覚はなかったことのように忘れ去られる。そう思うと自分自身の今の「感性」すらも信用ならない。(「俳句の美学」『豈』42号 2006年3月)

 俳句を論じるときに、自然とかかわっての伝統というのなら、正負の遺産をともに引き受ける覚悟が必要だろう。安易に浮世の外へ抜けてしまえる感覚・感性がもたらしてきたものを、一旦きちんと受けとめてもの言うべきであると考える。ただ時々の状況下の正の部分だけ取り出そうというのは欺瞞と言わざるをえない。虚子の言う意味の「花鳥諷詠」は反近代というほどの文学的、政治的機能など、持ちはしない。茅舎も述べていたように、それを抜け切ったところに真の意義を見いだすものだからである。もし、稲畑氏がそこに首をつっこむというのなら、「ホトトギス」の未来は一大転機を迎えることになるであろう。

      三、終わりに

 お題目は効能があるから唱えるものだ。例えば漱石の「則天去私」はその一つであろう。それは晩年の彼の人生観をあらわすものであったかもしれない。が、それのみで漱石の作品を説明しようとすることはあまり意味のあることではない。それに縛られることによって読み落とすものがでてくることになるからである。彼の人生観と書かれた作品は必ずしもイコールではない。
 一方、虚子の「花鳥諷詠」は、虚子の人生観、人間観、俳句観を強く反映し、しかも、ほとんどそれらはイコールといっても差し支えない扱いを受けているように見える。しかし、それは言いだした当初から虚子の本音だっただろうか。私見だが、虚子の句業を「花鳥諷詠」で説明することは、実はあまり有意義なこととは思わない。彼の句はもっと自由なものだ。「ホトトギス」経営者、近代俳句の領袖としての彼の俳句観と俳句と、作家虚子の俳句観と俳句の間に深く横たわる糸のもつれをほぐしていく作業が求められている。上田五千石は、かつて以下のように述べている。

 ジャンルの規定を一個の作家の名で定め得るという不思議がいまも消しきれないのだから、これはもう虚子の魔といっていい。しかし、俳句の大衆の変質まで虚子は予想していなかったであろう。虚子の死後四半世紀、じりじりと虚子の魔を解く時が熟成しているのではないか。(中略)私はまだ「俳句」という定型短詩は、付句三十五句の内包していた要素、条件といったものを「発句」が吸収、包摂していく時間を積みつつあると見ていいように思う。このジャンルの規定は「花鳥諷詠」では済まない筈だ。何故なら、詩の進化論の行方は誰も予想し得ないからである。とまれ「月並」であっても「俳句」を泡沫化はさせないだけの洞察力を俳壇はこの百年で培っているからだ。(「偉大なる実験者―『虚子俳話録』を読む」「俳句」昭六十年十月)

この五千石の予言に反し、現実はむしろ虚子が中心で、しかも実体のないうつろな力の中心となる方向へ動いているように思える。「虚子の魔」はまだまだ解かれてはいないのだ。

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2019/03/11

八年前のこと

 あの日は金曜日で、揺れ出したとき、出講先の学年末試験の採点をしていた。ゆれかたですぐ尋常な地震ではないと分かったが、現実ははるか予想の上を行くものだった。その翌日、急に入院中の父親が危篤になったと連絡が来た。危篤とはいえ、とにかく成績処理をしないと帰るに帰れないので、もろもろ帰る算段をして月曜の朝一に出勤して仕事を片付け、その足で羽田に向かった。そういうと簡単だが、都内まで行くにも最寄りの電車はまだ全線止まっており、バスで動いていた東急線の駅まで約一時間移動して都心に向かうこととなった。職場は職場で地震の時に居合わせた教職員は帰宅できなくなり、やむを得ず一晩泊まったと聞いた。おかげで本やら何やらが散らかったであろう自分の机は既にきれいに片付けられていた、そこで急いで仕事を片付けたが、職場から移動する時にも普段ならおそろしく正確に動いている山手線ですら予告なく途中で止まり、地下鉄に乗り換えないと羽田に行けないありさまだった。フライトにどうにか間に合う時間に羽田に着いてみれば、原発の屋根が吹き飛ぶ映像がモニターに繰り返し映し出されていた。同じ飛行機に乗る客は母と子だらけで、一様に不安な様子であり、戦禍を逃れる疎開者そのものだった。自分はそんな状況の中、この子供達の父親は仕事の為にやむをえず残っているのだろう、とか、テレビの向こうの震災の被災地の中に、直接地震とは関係なくいまの自分のように急に親が危篤になっている人もいるだろう、その人達は大丈夫だろうか、などと思っていた。地元に帰って病院に着いてみれば、父親はなんとか持ちなおしていた。すぐになにか、という状況ではない様子であったので数日で戻ったが、羽田から最寄りの駅までの帰りのバスの、高速の高架の上からみえた横浜駅のバスだかタクシーの乗り場には長蛇の列ができていた。バスが一般道に降りてみると道沿いは明かりを失っておそろしく暗く、たまにあるコンビニの明かりだけが異質に救いのような輝きを放っていた。

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句集備忘録 大沼正明句集『異執』より

 夏石番矢「俳句とは、実は、大胆な異体の言語パフォーマンスを試みる短詩であり、一句中のことばの流れや中断が、つねに実験的であるから、短さが生きるジャンルである。この根本的俳句詩学が、句会が氾濫する現在の日本で忘れられているのは、奇妙としか言いようがない。」(大沼正明句集『異執』栞から引用)

 夏石のこの文は、大沼の句業を語る合間に挟まれたフックの部分なんだけど、日本への愚痴の部分のまるくくり具合はともかくも、この詩学に共感するところ少なくない。大沼正明句集『異執』は1989年から2010年までの句を五章に分けてある。章は編年で立ててあるが配列が編年なのかどうかまでは分からない。どうやら大沼は作風の振り幅が大きい作家なのだが、例えば、

  波の水位のアパートに馴れ鮒など飼う     Ⅰ
  しぐれとお金は大人の生き物こりこりす    Ⅱ
  ユッカ蘭なる冬のシニフィエわれもシニフィエ Ⅲ
  黄蝶直下の僕の身サバンナ踊らんか      Ⅳ
  裁判員の守秘切れトンボと棒消ゴム      Ⅴ

というような詠みぶりは、夏石の言う「実験的」に該当するだろう。もうちょっと跳ねれば、田島健一の今の句柄にも近接すると思うが、大沼はダジャレ的な掛詞も多用する(すなわち意味に頼る文脈の構築を多用する)から、そこは決定的に違う。 

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2019/02/16

『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』

『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(現代俳句協会青年部・編 2018年12月25日発行 ふらんす堂)

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 同書にて、新興俳句弾圧事件で犠牲となった俳人の一人である嶋田青峰を担当執筆しています。ご一読くださると幸い。嶋田青峰は、早稲田大学で教鞭を執り、翻訳を手がけるなどしていましたが、国民新聞社に入社し、文芸部長だった高濱虚子の下で働き、俳句に関わり始めました。その後に「国民新聞」俳句欄から誕生した俳誌「土上」を、篠原温亭から引き継いで主宰しますが、どうやら大正自由主義のモダニストであったらしく、進取の気風をもっていた青峰は、やがて「ホトトギス」の影響をはなれて誌面を新興俳句運動の人々に開放してゆくことになります。ゆえに、「土上」は、創刊から終刊までの間に、柴田宵曲や富安風生から、東京三(秋元不死男)や金子兜太らまで、参加した俳人の作風にはかなり振り幅があり、通読すると面白い雑誌でした。今回の本では紙数に限りがあったので書き切れなかったこともあり、嶋田青峰と「土上」については、いずれあらためてまとめてみたいと思っています。

関連リンク
現代俳句協会青年部の注文フォーム
現代俳句協会の新着情報
ふらんす堂の紹介ページ

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2019/01/25

教科書に俳句が載るということ

   教科書に俳句が載るということ (初出:「In Situ」第2号2013年3月)


   はじめに

 俳句が「国語」の教科書に載ったのは、いつのことからであろうか。管見では、最も早い記事が、明治二十七年の中学校(旧制)の教科書に出ている。しかしそれは、和歌関連の歌文の附録として、連歌、謡曲、狂言、狂歌とともに「発句」として載っているに過ぎない。つまり、この教科書の作成者の認識として、日本の従前からの詩歌の代表は和歌であり、現在の俳句にあたるものは、その他大勢の中の一つにすぎなかったということがわかる。


 発句は、もと、連歌の本をノミいひて、その末  をはぶけるものなり。俳句、また、俳諧などいふ  あり。たヾし五七の一調に、次調の五言をくりあ  げて、そを、歌の上句と心得たるは、誤りなり。  こは、ものヽついでにおどろかしおくなり。

     ○              宗鑑。
  傘をきて、雨にもいでよ。夜半の月。
     ○              貞徳。
  これは\/、とばかり、花のよしの山。
     ○              芭蕉。 
  三井寺の、門たゝかばや。今日の月。
     ○
  雲をり\/、人をやすむる、月見かな。
     ○
  いざゝらば、雪見に、ころぶところまで。
     ○              其角。
  夏の夜や、蚊をきずにして、五百兩。
    蘇東坡の詩に、春宵一刻値千金。花有淸香月有陰。
     ○              鬼貫。
  行水の、すて所なし。虫のこゑ。


  (「国文教科書 第参篇中」明治二七年九月二〇日発行 教育学館校定 朝夷六郎・鈴木忠孝纂。記号等原文ママ。斜体部分の原文は漢文の返り点)

 この時期は、「国語」とか「国文学」という言葉が使われ出してそれほどたっておらず、子規が俳句革新をはじめたばかりのころでもあり、お手本として、室町から江戸期の発句しか載ってないことも当然といえば当然であるが、はじめの短いながら要を得た説明文のなかに、既に「俳句」の語はみえている。そして、自然美の代表である雪月花の五句を配した後、やや滑稽な二句を載せてあるあたり、この項の執筆を俳句がある程度分かったものが担当したと推察される。
 また、俳人から見れば違和感があるはずだが、作者名や五七五の各音節に一々句読点があるのが特徴的であろう。句末にはかならず句点を付し、其角句を除いて句中の切れの場所にも句点を付してある。要は現在の文章における句読点を付すときのルールが最初期の教科書の俳句にも適用されているわけで、この俳句の姿は、いまとはちょっと違っている。国定ではない比較的自由に教科書が作られた時期で、この句読点が教育的配慮だったのか詩歌文章全般の書き方のルールの過渡期だったからなのかは未詳である。が、考えようによっては、我々がこれが俳句だと考えたり、俳句の正しい表記方法だと考えているものが絶対的なものではないことを教えてくれている。
 端的にいうと、これら句群は確かに教材だが、いわゆる国語の「古典」とされたものと考えて良いかは怪しい。挙げてある作家は、蕪村や一茶の再発見前ゆえとしても、作品の選択は発句らしさによるものと思われるが、規範としての「古典」にふさわしいかどうか。表記も規範の衣装を纏うためには、むしろ古典らしいたたずまいとして句読点などは削ぎ落とされねばなるまい。これは一例にすぎないけれども、現在古典とか伝統とかにされているものに、近代に再仮構された成分が含まれることは珍しいことではない。
 さて、そもそも、俳句が教科書に載る意義を、どのように考えることができるのであろうか。すくなくとも以下の五つはあげられるだろうと思う。

 一、例えば歴史の教科書に豊臣秀吉と大阪城が載るように、歴史上の文化遺産として。
 一、連歌や落語のように、専門性の高い日本の伝統的な芸能の一つとして 
 一、教育で学ぶべき伝統的日本文学の規範(古典)の一領域として
 一、教育で学ぶべき近現代文学の一領域として 
 一、誰でも参加可能な創作表現として

先の二点は、どちらかと言えば社会的な領域といえるだろう。社会の教科書にも芭蕉は登場するが、歴史上の文化遺産としての学習であって、作品の解釈まではやらない。後の三点が主に国語が担う領域になろうと思う。そこで駆け足ながら考えてみたいと思うのは、まず、日本の伝統文学の規範たる「古典」に、俳句がいつ格上げされたのか、ということと、同時にそのような「古典」の認識はなぜ、どうして立ち上がってくるのか、ということである。

 
   古典規範化の中の俳句

 明治期においては、芭蕉を中心とした近世俳句が「古典」として定着することに国語教科書が直接なにか役割を果たしたとは思われない。調べた限りの範囲ではあるが、全国一律となった国定教科書の時代以後も、副読本などをのぞいて、あまり掲載されていないからである。また、掲載されていても、芭蕉の書簡中の句とか、子規の随筆中の句という風で、国語教育に於いて積極的に俳句を掲載する意志は感じられない。おそらく順番としては逆だろう。
 子規は蕉門の尻尾を糾弾する為に芭蕉を厳しく批判したけれども、透谷や藤村らの詩人や、虚子、井泉水らが芭蕉の境地を理想として受容したことはよく知られている。これは教科書副読本にも反映していて、例えば大正十三年刊の「現代文新選」下(鳥野幸次他編 文学社)には、子規の「芭蕉の俳句を評す」(『獺祭書屋俳話』からの抜粋)が載る一方で、藤村の「芭蕉の『さび』」が載ってもいる。後年世の評価が定まったところで、あらためて「古典」として教科書類に普通に載ることになった、というところだろう。
 その間の諸々の事情は、それら諸作家の思想や俳句側の事情と離れた「国語」の近代がかかえていた諸事情にもかかわるが、そこに深入りすることは紙幅にあまるので、以下ごく大枠だけ述べておく。
 そもそも、教育としての「国語」は、もちろん自然言語としての日本語とまったく同じとはいえないし、初めからナショナリズムを胚胎して明治に始まったものである。「和文」と呼ばれたものを国民国家の統一言語たる「国語」にするべく推し進めた第一人者は帝大教授の上田万年である。彼はハイパーエリートであり、実は子規や漱石と同い年であるにもかかわらず、すでに十代で早々に帝大を出、明治二十三年(子規が大学に進学した年だ)に独仏に留学し、子規が退学し日本新聞に入社した二十七年には、帰国早々に国文科教授となっている。彼が明治国家から期待されていた仕事は、新しい近代国民国家の統一言語としての「国語」を完成することであった。
 当時は、一国民国家には必ず独自の統一言語があり、独自の文化(各国の通貨紙幣のデザイン肖像画の文化人はその象徴)がある。それは文化相対的なものではなく、欧州列強国のそれに比肩される、という意味において世界標準のルールであったと言って良いだろう。従って、日本文化にも、欧州諸国の詩歌文学に比肩されるような独自のものが当然要請された。もちろんそれだけではなく、江戸期まで独立国家連合のようなものだった各地方とその独自の方言や、領土内異民族の言語による差異を、標準語を拵えることで超克する目的もあったろう。そのような背景が俳句に全く無縁であったとはいえまい。先にあげた例の宗鑑らではそのような要請に応えられなかったからほぼ教科書から消えたのだろう。芭蕉や蕪村や一茶は、日本を代表する古典詩人として歴史に浮上する使命を負って官と民の手で近代以後に理想化され再生されたのである。そしてその芭蕉を批判した子規は、逆に「現代作家」であったが故にその死後は後続の中に埋没し、大正後期にアルスから全集が出るまで、世間に忘れかけられることにもなる。
 さて下って昭和七年の「中学文学読本」上(國語漢文研究会 目黒書店)には、俳句の説明の項に、

 俳句は連歌の発句のみが独立して行はるゝに至  りたるもの、故にまた発句とも云ふ。その鼻祖は  松永貞徳といはれ、北村季吟、西山宗因等によつて継承せられ、遂に元禄の頃松尾芭蕉に至りて文学部門に確立さるるに到れり。

と説明があり、芭蕉の三句の他、其角、去来、凡兆、蕪村、一茶ら八人の十一句が掲載されている。この説明文では、簡単な俳句史とともに、芭蕉がその「文学」としての俳句の大成者として説明されている。冒頭の例から数えれば三十年ほどで、俳句は和歌のおまけからだいぶ出世したとでも言えようか。飛躍するようだが、このころ、日本は国際連盟の常任理事国となってもいる。この「文学」は、国文学の背負った戦略にも、例えば大正の白樺派的な文壇の文脈にも適って、欧米列強と肩を並べ世界の一等国になった国の「文学」であることを意味したものだったろう。


   太平洋戦争戦直後の教科書と俳句

 戦後の俳句と俳人については、すでにいろいろなところで言及があるが、教科書についてはほとんどないのではないだろうか。少なくとも、俳人がそこに興味を持って何かを書いたというのは寡聞にして聞かない。戦後、人間教育を誤った結果があのような悲惨な事態を招いたという反省の下、今度は「文学」にその人間教育の部分へ大きな期待が寄せられたという。その尻尾のおかげでか、長いこと授業における小説は道徳的に読まれてきたし、例えば筆者自身も漱石の小説を人生の教科書のようにいう年配者を何人か見たことがある。それも教育の一成果といえるかもしれないが、もとより漱石のテクストは道徳教育の奴隷ではない。
 それはさておき、その人間教育重視の一環から、と言って良いと思うのだが、戦後の昭和二十七年にでた光村図書の中学校国語科教科書「中学新国語」は、「言語編」と「文学編」の二分冊に分けられている。そして、俳句はその「文学編」からは落とされている。再び俳句は、戦後にふさわしい人間を教育する場において「文学」の地位から滑り落ちた、と言って良いのかもしれない。
 「言語編」に入った俳句は「詩の味わい方と作り方」という章に繰り込まれている。編集者の意図は必ずしも俳句が文学ではないと断定するものではないのだろうが、五人の生徒と教師の問答の形式によって進められる俳句の説明はなかなか高度であるものの、「文学」の語は一つも出て来ないし、最後の「先生」の言葉「この境地は、口であゝだこうだと説明しても、よく納得はいかないと思う。」によく現れているように、やさしい説明などはない。俳句はある「境地」を詠むもので、難しくて人間教育には向かないということなのだろうか。しかし、やさしくないわりに、単元末の学習事項「みんなでやってみよう」では、俳句の創作と発表会を勧めてある。つまり、つくるだけなら当時の教員のスキルで簡単に出来るだろうと思っていたか、本気で作るとは思っていなかったかのどちらかだろう。
 しばらく後に分冊はなくなり、作品の異同はあるものの、ほぼ現在の教科書(本誌資料の頁参照)に近い形が落ち着き、かなり長く続いてゆくことになった。


   俳句が教科書に載るということ

 ところで、ほぼ皆同じ言葉を話せるのに、国語の教育はなぜ十二年も必要なのだろう。受験で必要、という要素を抜いて考えれば、一つには、市民生活に必要な読むスキルを備えるため。もう一つ、話し言葉はともかく、漢字の学習を含めて書き言葉の習得は難しく時間がかかるため、というところだろうか。読みには道徳が滑り込むことにもなる。また、国語で話術を磨くことはまだ一般的ではなかろう。それらだけなら俳句は別に国語の教科書になくてもいいのではないか。また、受験のことだけを考えれば、俳句の授業時間はなくてもいいに違いない。ではなぜ今も載っているのか。

 国語は、長い歴史の中で形成されてきた国の文化の基盤を成すものであり、また、文化そのものでもある。国語の中の一つ一つの言葉には、それを用いてきた我々の先人の悲しみ、痛み、喜びなどの情感が集積されている。我々の先人たちが築き上げてきた伝統的な文化を理解・継承し、新しい文化を創造・発展させるためにも国語は欠くことのできないものである。
この文は「これからの時代に求められる国語力について」という、二〇〇四年一月に文化審議会国語分科会がだした答申の一節で、文科省のホームページで簡単に入手できるものである。  いじわるな言い方をすれば、「国語」は元々、国民国家という世界標準ルールの一環として近代に日本語の中にある方言や国内の異民族の言語を排除して作られた統一言語であったはずだが、いつのまにやら反転して「長い歴史の中で形成されてきた国の文化の基盤を成すもの」にすり替えられている。続く「国語の中の一つ一つの言葉には、それを用いてきた我々の先人の悲しみ、痛み、喜びなどの情感が集積されている。」というくだり、この文に想定された「我々の祖先」から排除された「国語」話者の「悲しみ、痛み、喜び」はどうなっちゃうのだろう、と思わないではいられないのだが、ひとまずそれらと「伝統的な文化を理解・継承し、新しい文化を創造・発展させるため」という表現の中に、俳句を「国語」の教科書に載せる根拠を読み取ることはできるだろう。  そして俳句が「伝統的な文化」の一員で、かつ「新しい文化を創造・発展させる」ものである限りにおいて、近世の発句も近代以降の俳句も有用、と認められるからか、新しい指導要領では創作要素が導入され、小中の義務教育では俳句の学習に加えて創作の授業が行われることとなっている。


   おわりに

 社会には時代時代でルール変更をされる部分と、変更されないまま意識から後景化し見えにくい部分がある。教育はそれらへの醇化や修正を担う分野の一つだろう。ゆえに逆説的に過去の教科書と現在を見くらべれば、変更された部分を確認することは可能である。ここで書いたことと俳句の本質とは本来何の関係もないように見えるかもしれないけれども、これから世の中に学生の手になる「国語」に適う俳句が大量に生まれてくる。俳句甲子園のようにそれをディベートで批評することもなされるだろう。それは青い柔道着のようなもので、俳句への欧米型のルールの導入でもあり、PISAが要求する言葉に関する能力の涵養にも貢献しうるだろう。これまでもそうだったように、時代がそれを求めているから、ということなのかどうか。


〈主要参考文献〉
菅野覚明「詩と国家」勁草書房 二〇〇五年
佐藤泉「国語教科書の戦後史」勁草書房 二〇〇六年
安田敏朗「『国語』の近代史」中公新書 二〇〇六年
石原千秋「国語教科書の中の『日本』」 筑摩新書二〇〇九年
中野敏男「詩歌と戦争」NHKブックス 二〇一二年
※引用の教科書類は、筆者が国立教育政策研究所教育情報研究センター教育図書館及び、公益財団法人教科書研究センター附属教科書図書館所蔵の資料を調査したものに基づく。
  

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2018/12/22

三宅やよい著『鷹女への旅』(創風社出版)書評

「三宅やよい著『鷹女への旅』(創風社出版)書評」 (「船団」第115号 2017年12月1日発行)

  
   天才のトレース

 不勉強で知らなかったのであるが、三橋鷹女はその高名に比し評伝や研究資料が少ないように思われる。『三橋鷹女全集』(立風書房、一九八九年、全二巻)の第二巻は鷹女論集で、巻頭の中村苑子を除き既発表の諸家の評論二十五本を集めて有益だが、いまこの本の入手はかなり難しいだろう。また、朝日文庫『現代俳句の世界11 橋本多佳子 三橋鷹女』(一九八四年)の巻末には、齋藤愼爾による略年譜と三橋敏雄による解説があり評伝としても要を得たものではあるが細かい部分の情報不足は否めないし、今やこの文庫もなかなか入手は難しくなった。そして、本書が出るまで単行本としては評伝らしい評伝は一冊もなかったようである。その意味では現在もっとも入手しやすく、かつ丁寧に鷹女の生涯の足跡をたどっている本書は、画期の仕事であるといえるだろう。鷹女の出生地である成田の時代から筆が起こされ句集を軸に章立てされており、各章でその時々の鷹女の生活の様子と俳業が丹念にトレースされてゆく。

 私が鷹女句でまず浮かぶのは「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」や「この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」であり、これらの句の主体には烈女のイメージを持つ。作品と作者を単純に結びつける気はないけれども、そのような造形をする鷹女はいったいどんな人物なのかと読み進めながら印象に残ったのは、家庭においては夫を立てて家庭を守る、いわゆる良妻賢母の典型といってもよいような人であったこと(第一章参照)。また俳句の指導者としても「温和で優しい先生」(一〇九頁)だったことだ。その一方で、表現者としての鷹女は初期から既に師に従うというよりも己に従う人であった。例えば、父の新盆の句、

  流れゆく瓜のお馬よ水に月

 初期の師である原石鼎が賛辞を尽くした呼びかけの「よ」を、鷹女は第一句集『向日葵』に収める時にはあっさり「や」に変えている。三宅氏は「師や同人の評価よりも鷹女にとっては自分の感情をより直截に俳句に反映させて表現することが大事であったのだろう」(四七頁)と指摘するが、大事だから師より自分の判断を優先するというのは、結社の世界では異端と言ってよい。以後も永田耕衣や富澤赤黄男らと影響関係を持ちつつ反発もし、激動と言ってよい時代の中で独自の表現を模索する鷹女の姿が描かれてゆく。
 しかし、独自の表現をするということは他者に通じにくいということでもあるだろう。『向日葵』に対する永田耕衣の、「何を他にプラスしてゐるかがわからない」「思ひ切つてズバリズバリと吐き散らして行つたに過ぎないといふ気がする」という評(七七頁)を受け、三宅氏は「俳壇での『向日葵』の評価はこの耕衣と似たり寄ったりではなかったか。鷹女の個性の強い句は歓迎されなかったのかもしれない」と述べている。「四T」というレッテル貼りをして鷹女句を称揚した山本健吉ですら、『現代俳句』(角川)では鷹女を立項していないのである。結局山本は鷹女句の価値を本当にわかってはいなかったのかもしれない。

 鷹女の俳句の仕事を一言で言うなら、生涯をかけて天才の仕事を試みた、というのがふさわしいように思われる。この天才というのは、結社の中で主宰や仲間に名人と認められて云々というようなものではなく、文字通り俳句の神に愛された一個人による、芸術のための芸術として俳句作品を生み出してゆくような質のものだ。座の文芸とも言われる俳句の世界においては、そのような仕事を試みる俳人は特異で少数の存在であり、まして明治生まれの女性でというのは、希有のことと言っていいように思う。いまだに男性芸術家であれば家(家庭)を顧みないような所業をしても往々にして社会から甘やかされるところがあるように思うが、女性の場合そのようなことは許されない社会の強い抑圧が働いているからだ。

 本書を繙くことで見えてきた鷹女の仕事の面白さ、大変さは、そのようなことを百も承知ですべてを引き受けながら老境に至り己の限界を見定めるところまで一個として独自の表現を確立しようとしつづけたところにあるかもしれない。それは凄絶な日々だったに違いない。「エピローグ」で晩年の鷹女と生活を共にした三橋絢子氏のインタビューの以下のくだり、

  三宅 お孫さんへのしつけっていうのは厳しかったですか。
  三橋 そうね、いつでも緊張されている方だから、子供のほうも緊張してしまうっていうのはありましたね。

 この「いつでも緊張されている方」というのが、非常に印象に残った。鷹女の生きる姿勢、そのたたずまいが端的に現れているように感じたからだ。

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「冬海」(角川「俳句」2017年12月号)

  冬海      

狐火を匿むガラスよ吹き手たち
食べるだけ食べ寒鯉になつてゐる
猪の身籠もり廃船は陸に
郷土史に獺滅ぶ冬の波
凍星の端を大魚の跳ね上がる
黒髪に霜結ぶまで海に向く
寒暁の市場の猫の面構へ
糶果ててゆくところなき撞木鮫
鮫の歯を目を背を腹を見て触れる
冬の鳶なにをみてゐる塔の先
捨てられて漂ふ河豚の膨れ腹
冬海を放つ海月は溶けながら

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