人の俳句について書くこと
田島が苦労しているらしい。
「俳句を『俳句の言葉』以外で語ることができないか」。子規は明治のグローバルスタンダードの中でそれをやったわけで、我々は平成のそれでやれるでしょう。もちろんデキル範囲で。田島、そういうの俺より向いてると思うけど。
以下、その俳句を語る難しさについて。
師弟間の相伝や相互理解なんかは当事者にしかわからない部分があるから、もっともわかりにくくなりがちなものであろうが、勉強しているものとしては、まさにそれを知りたい。ゆえに、それを外に向かって言葉にするなら、他人がわかる言葉で伝える努力はしてほしい。以下、そんな意味であんまり良くない例、
川を見るバナナの皮は手より落ち 虚子
に対して、深見けん二は「一人の男が、ぼんやりと川を見ている。その手に持ったバナナの皮が、手から離れて落ちたことも気づかぬように、男は川を見ているという句である。こう描写することで、無表情で、ニヒルな、ある男の姿が浮かんで来る。(中略)こうした、つき離した写生は、作者の感情が無の状態といういい方もあるが、逆に、俳句だけしか表現出来ない世界であり、虚子俳句の一つの大事な面で、それによって、逆に、昭和十年代の時代に生きていたある人間というものが如実に描けていたという恐ろしさも蔵している(中略)十一月でもバナナ(当時は、夏の季感が十分あった)を自由に使うのも虚子である(「虚子の天地」96年 蝸牛社)」と書いている。
この本虚子の直弟子の証言なので、とても面白いいい本なんだけど、この部分はさっぱりわからない。「一人の男」は詠まれた方で「ニヒルな、ある男」が作者?、「つき離した写生」の「つき離した」のはレトリックなのか、作者の心なのか?、「作者の感情が無の状態」って何?健吉のいう「痴呆」のことか?、「逆に、昭和十年代の時代に生きていたある人間というものが如実に描けていたという恐ろしさ」「逆に」ってその前にも使ってるけど何が逆なの?口癖か?「ある人間」とは?何が「恐ろし」いんか?疑問だらけだ。掲句、昭和九年十一月四日の武蔵野探勝会の折りの句故、夏の季感が十分あった「バナナ」を使う虚子に「自由に使うのも虚子」って言うんだけど、これも虚子なら良いってことなのか?弟子から師匠を語るってことがどういうことか垣間見えて面白いが、結局何でこんな言い方をするのかも、何が言いたかったのかもわかりにくい。残念だがいまはこのパズルを解く余裕がない。
言葉の問題がたとえ定義の置き換えの堂々巡りであろうと、他者がわかりやすい、かつ、自分が納得する表現をおいかけるべきだとおもう。所詮暫定でも。哲学用語辞典みたいなんがあるんだから、俳句だってできるでしょう。「俳句用語用例辞典」みたいな。だいたい「写生」「花鳥諷詠」みたいなポピュラーな用語ですらいちいち書き手ごとに用語の理解が違うなんておかしい。
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