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2006/08/11

なめろう

今日は鰯のなめろうをつくった。酒のアテにもご飯のお供にもめっちゃあう。基本は青魚とネギとショウガと味噌を粒の歯ごたえが残るくらいまで刻んでたたいて出来上がり。お好みでニンニク、大葉、ミョウガなどを入れて食べるとなおうまい。


さて、田島のブログから勝手なことを・・・


歳時記は、その特殊性についての作り手と読み手のコンセンサスである。
(中略)
では、なぜ、忌日なのか。つまり、死んだ日なのか。

それは、「死んだ日」がまさにその人物が完成した日だからである。つまり、人物がその特殊性において過不足のない状態になる、ということである。
(中略)
忌日の句における、忌日の人物に与えられる「新しい価値」とは何か。


・「歳時記は、その特殊性についての作り手と読み手のコンセンサス」、現実には、歳時記の季語は、作り手であり読み手でもある名のある俳人or俳句の出版関係者が決めて出してきた。合意というより、上意下達に近い形で、一般の俳人は受け手にまわっていることが多い。いわば、FIFAと少年団のサッカー小僧の関係だ。その間の溝は「コンセンサス」があるほど相互交流はない。
・なるほど。忌日=人名。死ぬ=完成。たしかに。すると、人を季語にするにはそれしか手が無いのかもね。例えば山頭火のように、死んだ直後は無名でずいぶん経って名の知れた人の忌日は、それまで留保されていたことになる。嫌味な言い方だが、俳句の世界では世間様が認めてくださるまでは、引導を渡してもらえない。死んでも死ねないのねん。ってことは、多くの忌日の背後には、浮かばれないあまたの忌日が・・・・・・・おお怖。
 常識的に言えば、詠み手がその忌日の死者を悼む気持ちがなければ話にならない。一人一人の悼む気持ちが積み重なっていくことがいわば「新しい価値」なのか?集合意識の累積。たまればたまるほど、死者は浮かばれるのである。じっさいは、人口に膾炙するほどの良い句が出来たときはじめて新しい価値なのかもしれない。
 しかし、そもそも忌日が季語になる人とならない人の線引きは誰が決めるのであろう?やはり、名のある俳人or俳句の出版関係者なのだろうか。その選び手の恣意ってなんか嫌だな。
 それから、みんな誰の忌日なら句を詠みたいのだろう?わざわざ人の死んだ日を。糸瓜忌、河童忌、桜桃忌・・・・桜桃忌ってゴロが良いせいか圧倒的に多い気がするのですけど、気のせい?

 さらに、上田さんが田島の季語論に反応している。

15.季語は、俳句という遊びのルールだ。ほかに根拠はないと思う。サッカーは手を使わないと決めた、みたいなもので。季語というルールのもと、俳句は複雑化しおもしろくなったので、やめる必要もなく今に続いている。 16.たじまさんの「忌日とは人名だ」という把握。季語は特定の時と場所をもっているという把握、おもしろいです。ワン&オンリーのことば、裏に「the 」がつくことば、というかんじでしょうか。それが、挨拶にも、待ち合わせの鍵にもなっている、という。

なるほど。面白い。おもわず手でもっちゃったラグビーは言って見りゃ自由律俳句ですかね。どういうわけだか本国ではサッカーは下、ラグビーは上の階層が主流ですが、俳句の雅俗でいえばサッカー側の方が雅でいたい人が多いみたいだけど。「ワン&オンリー」たしかに。しかし、忌日ばかりが集合したとき、無関係の忌日同士が妙に連関する印象ってないだろうか。これも一考の余地がありそうだ。


ところで「なめろう」って、季語では「沖膾」なんていうらしい。なんかそれじゃあうまそうじゃないな。「オキナマス」「オニカマス」に似てるな。新手の生物のようだ。「なめろう」のほうが絶対うまそうだと思う。そう、類語を並べたときに、表記や音の差から季語の本意に最もふさわしく感じる語って、どのくらい個人差があるんだろうか。こういうことに「コンセンサス」を求めることって、面白そうな気がする。

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