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2007/04/20

歌舞伎と俳句

のっけから孫引きで恐縮だが、尼ヶ崎彬氏による(註)と、忠臣蔵四段目の判官の切腹の場面で判官に「由良助はまだか」と聞かれた時、力弥が「いまだ参上つかまつりませぬ」と遠く花道の奥を見て悲痛な声で言う場面の力弥の演技について、六代目菊五郎が中村勘三郎に「揚げ幕に仮に丸い穴をこしらえて、そこから向うを見てみな」と教えたという。勘三郎は心の中で揚げ幕の穴を想像し、そこから遠くをじっと透かして見るようにしてみたところ「形と心がいっぺんに」わかったという。すなわち、外形の身体の型をなぞることで内面の心の型も理解したわけだ。これはすごい。歌舞伎の様々な演目の所作の文脈の中でこそピンとくる話だろう。
 歌舞伎の歴史は芭蕉以来の俳句の歴史とそう変わらない。歌舞伎は濃密に自閉し、心身の型を練り上げている。これこそ伝統、というものだろう。身体ではなく言語のみで勝負する俳句では、五七五という定型を持つけれども、その中にいかほど表現の型とそれを理解できる文脈を継続できているのだろうか。文字通り身体運動が加わる歌舞伎の文化と違って、言語で勝負する俳句の文化においては、インフラとして理解の文脈がなければ、伝統と称し一見強固に見える定型の中身もそんなにないはずだ。そこで文脈=季語と考えるのは素朴にすぎるだろう。「古池や~」一句で本が一冊書けるほど不安定な状況なのだ。伝統とか定型にひどく固執する人たちの覚悟の程はいかばかりなのだろう。他の伝統芸能のように、ある段階までは形をなぞっても、そのうち中身が伴うという風にはなかなかいかない話であると思うけれども。

(註)・・・『なぞりとなぞらえ』(「模倣と創造のダイナミズム」山田奨治編 勉誠出版)

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» 切れ字の「や」 [俳句的日常 come rain or come shine]
高尚な話が始まりそうなタイトル↑だけど、例によって、ぜんぜんそうではない。初心者としての悩みを吐露するというだけ。 「や」というのはむずかしくて、すごく厄介。 まず、おさらい。 http://toto.cocolog-nifty.com/kokugo/2004/10/post_3.html いまさら何言ってるんだ?と思う人が多いかもしれないが、句のなかに「や」が置かれた場合、次の2つの約束事が生じる。 1) そこでいったん切る。これにはおそらく2つの側面があって、ひとつは韻... [続きを読む]

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